論文

サウンド・パターンを聴く──トニー・シュヴァルツのドキュメンタリー録音

『美学』第246号、2015年、185-196頁

 
 
はじめに

 一九六四年九月七日にテレビ放映されたリンドン・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)のアメリカ大統領選挙コマーシャル、通称「デイジー」は論争を招いた政治コマーシャルとして知られる。この六〇秒の映像は花びらを数える少女の姿から始まる。少女が一〇を数えると同時にボイスオーバーで今度はカウントダウンをする音声が聞こえ、映像は彼女の瞳をクローズアップしていく。カウントがゼロに達すると爆発が起こり、ジョンソンの声が響く。「これこそが問題だ。神の子が暮らせる世界にするか、破滅に向かうか。愛し合わなければ死を待つのみだ」。最後にアナウンサーがジョンソンへの投票を呼びかける。「デイジー」は一度しか放送されなかったが、共和党候補者陣営の激しい反発を招き、歴史的大差となった選挙結果に影響をあたえたとされる(1)。効果的だった理由は、視聴者に共和党候補者が核兵器利用を支持したことを想起させたからだった。「デイジー」の音響を担当したのはコマーシャル作家トニー・シュヴァルツ(Tony Schwartz, 1923-2008)である。彼は著書『レスポンシブ・コード』(一九七三)のなかで電子メディアによるコマーシャルでは視聴者に想起をさせることが最も重要であると語った。「最も優れた政治コマーシャルはロールシャッハ・パターンに似ている」(2)。

 キャスリーン・ジェイミソン(Kathleen Hall Jamieson)はこのコマーシャルの少女が花びらを数え間違えることに注目する(3)。彼女によれば、コマーシャルに現実味をもたらすこの演出から、作者が音の世界に精通していることがわかる。実際、シュヴァルツはコマーシャルを手がける以前、彼が暮らすマンハッタンのストリート・ミュージシャンの演奏や住民の声、さまざまな環境音など、日々耳にした音をテープ・レコーダーで録音し、レコードを制作していた。先の著作の序文でジョン・キャリー(John Carey)は、「メディアを介さない日常的なコミュニケーションをめぐるこうした初期の仕事が、彼の電子メディアに対するアプローチの基礎になった」と指摘した(4)。

 本論文は音響テクノロジーを通した聴取の実践について理解を深めるために、シュヴァルツが制作したこのドキュメンタリー録音の性格と背景を考察する(5)。スティーヴン・フェルド(Steven Feld)の「音響認識論(acoustemology)」を元に、トーマス・ポーセロ(Thomas Porcello)は「テクノロジー音響認識論(techoustemology)」という用語を提案した(6)。前者が特定の音環境を個人がいかに聴くのかをめぐる研究だとすれば、後者は個人がテクノロジーを通して音環境をいかに聴くのかを扱う。アメリカでは一九四〇年代半ばに市販が始まったテープ・レコーダーが、音をめぐる幅広い実践のあり方を変え、聴き手の認識にも影響を及ぼしたことは、これまで多くの研究で論じられてきた(7)。シュヴァルツが取り組んだ環境音の録音は、個人がいかに現実の音環境を認識するのかに関わる実践である(8)。こうした実践はこれまでミュジック・コンクレートとサウンドスケープ・レコーディングという二つの文脈が主に考察されてきたが、シュヴァルツのドキュメンタリー録音はこれらとは異なる文脈にある。また彼の実践には先に見たような電子メディア広告や、当時のポピュラー音楽や都市空間との結びつきも深い。そのため、テープ・レコーダーをめぐるテクノロジー音響認識論にとって彼の実践は重要な意義があると言えよう。

 シュヴァルツに関する政治広告論以外の先行研究には以下のものがある。リチャード・コステラネッツ(Richard Kostelanetz)はラジオ広告について彼にインタビューし、バリー・トゥルアクス(Barry Truax)はテープ・レコーダーの初期の活用者として彼を紹介した(9)。ジェニファー・ストーヴァ―=アッカーマン(Jennifer Stoever-Ackerman)は彼の『ヌエバヨルク(Nueva York)』(一九五五)がいかに当時の人種問題を音の文化からとらえたかを、W・E・B・デュボイス(W. E. B. Du Bois)の「カラーライン」概念を参照して考察した(10)。これらをふまえて、本論文はシュヴァルツのドキュメンタリー録音全般に認められる性格を検討し、マイクロフォンを通した彼の聴取のあり方を明らかにしようとする。手がかりになるのは彼の電子メディア広告論である。本論文はここから音に関する彼の認識を読みとり、それがドキュメンタリー録音の実践にもとづくことを明らかにしたい。

 本論文は三節からなる。第一節ではこれまで日本であまり紹介されてこなかったシュヴァルツの経歴とドキュメンタリー録音の概要を論じる(11)。第二節はテープ・レコーダーの登場と環境音の録音という実践の関係など、同時代の文化的背景を考察する。第三節は電子メディア広告論を糸口に彼のドキュメンタリー録音の性格を検討する。結論では第一、第二節の議論を第三節の議論と結びつけることで、シュヴァルツの聴取のあり方がいかに形成されたのかを理解しようと試みる。

 
第一節 ドキュメンタリー録音から広告へ──シュヴァルツの前半生

 一九二三年にニューヨークで生まれ、郊外のクロンポンドで育ったシュヴァルツの子供時代はラジオとともにあった(12)。ラジオから聞こえる音楽のなかでも特にフォーク・ミュージックが彼の心をとらえた。しかし、彼が学生時代に開花させたのは視覚芸術の才能だった。プラット・インスティテュートで美術を学び、海軍を除隊後、シュヴァルツは四四年にマンハッタンに移住して広告デザイナーとして働き始めた。軍務中に磁気録音について耳にした彼はこの時期にウェブスター社のワイヤー・レコーダーを購入した(13)。当初の用途はラジオのエアチェックだったという。

 当時のニューヨークにはフォーク・ソングを歌うストリート・ミュージシャンが集まりだしていた。彼らの音楽を録音しようと、シュヴァルツはレコーダーを屋外で持ち歩くための装備を自作した。ミュージシャンも録音を歓迎し、彼はフォーク・リヴァイヴァルを代表する歌手たちやハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte)、ムーンドッグ(Moondog)らと交流を深めた。このころミュージシャンの一人からフォーク・ミュージックの録音が趣味の知人がカリフォルニアにいると聞き、郵便で録音の交換を始めた。これをきっかけにシュヴァルツは交換にのめりこみ、雑誌の投稿欄などを活用して五二カ国の八〇〇人を超える愛好家とやり取りしたという。英語しか話せない彼は非英語圏の相手と交換するときは友人に通訳を頼み、テープ・レターを作成した。

 膨大な録音アーカイブを作りあげたシュヴァルツは、公共ラジオ局WNYCで番組「アラウンド・ニューヨーク」を担当することになった。さらにモーゼス・アッシュ(Moses Asch)が運営するフォークウェイズ・レコーズから、子供の歌や遊びを収録した『ワン・ツー・スリー・アンド・ジン・ジン・ジン(1, 2, 3 And A Zing Zing Zing)』(一九五三)を発売したのをきっかけに、ドキュメンタリー録音作品を次々と発表した。『ニューヨーク十九番(New York 19)』(一九五四)は、世界中の相手と録音を交換するために彼が作った、地元を紹介するテープ・レターが元になった。一九番は彼が住む区域の郵便番号である。この作品の制作から派生した『無数の音楽家たち(Millions of Musicians)』(一九五五)や、ニューヨークのプエルトルコ系移民の言葉と音楽からなる『ヌエバヨルク』などがこれに続いた。

 シュヴァルツは自分の録音対象を広義の「フォークロア」と呼んでいた(14)。彼の実践がフォーク・ミュージック愛好の延長であることを示すこの言葉には、子供の遊びや路上の行商人の声、子供を呼ぶ母親の声、労働者の作業の音、自然現象の音や電車の音などの環境音が含まれた。彼はこうしたドキュメンタリー録音を本業のかたわらに趣味として取り組んだ。いつもレコーダーを携帯して日常のなかで録音を重ね、週末に編集する生活を送っていた。彼は趣味だからこそ音楽や学問の領域に拘束されず、生の豊かさを自由に記録できたと語る(15)。

 シュヴァルツは一九五〇年代半ばよりコマーシャルを手がけだした。彼が制作したジョンソン・アンド・ジョンソン社のテレビ・コマーシャルは本物の子供が出演していると話題になった。それまでのコマーシャルでは成人女性が子供を演じていた。シュヴァルツは子供の遊びを録音したとき、子供どうしが言葉を反復させて遊びを教える方法を観察していたため、コマーシャルでもこの方法を利用して子供の自然な声を録音できたのである。以降、彼はAT&T社、コカ・コーラ社など大企業のコマーシャルを多数制作し、またジョンソンやカーターらの政治広告や、禁煙・エイズ啓発・核兵器廃絶運動などの市民運動の広報にも携わった。六七年にフォーダム大学の講師を務めたときにはマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)の同僚となり親交を結んだ。シュヴァルツの二冊の著書、『レスポンシブ・コード』と『メディア――第二の神』はマクルーハンのメディア論を広告に応用したものと言えよう。二〇〇八年に亡くなった彼の録音アーカイブやコマーシャル作品は、議会図書館の「トニー・シュヴァルツ・コレクション」に収蔵された。

 彼の経歴を見ていくとき、無視することのできない二つの事実がある(16)。彼は十三歳で広場恐怖症にかかり、この症状は生涯続いた。そのため彼は住居周辺の区域から一人では出ることができず、ニューヨークから離れることもなかった。彼が郵便による録音の交換に没頭した理由のひとつはこの症状にあるのだろう。また、シュヴァルツは十六歳のとき六ヶ月間、一時的な失明を経験した。彼はその原因を情緒的なものと説明しており、この経験が音の世界や音響テクノロジーに対する関心を深めたと語った。本論文はドキュメンタリー録音とこれらの事実の関わりを深く追求するには準備不足だが、彼の実践と関わる重要な論点であると考えて、次節でもふれることにする。

 
第二節 ドキュメンタリー録音の背景──環境音の録音、レーベル、都市空間

 本節はシュヴァルツのドキュメンタリー録音の背景を見ていく。趣味としての環境音の録音について考察した研究はまだ少ないが、彼の実践が特異なものではなかったことを強調しておきたい。本節は最初にテープ・レコーダーの普及と環境音の録音について、次にシュヴァルツの作品を送りだしたレーベルについて、最後に当時のニューヨークの社会的状況について論じる。

 まず、シュヴァルツの前半生における音響メディアの展開を概観しよう。WNYCの開局は彼が生まれた翌年、一九二四年である。シュヴァルツはラジオとともに成長し、ラジオの黄金時代に青春を送った。一九四四年、連合国軍がラジオ・ルクセンブルク放送局でドイツ軍の高性能ワイヤー・レコーダーを発見したとき、彼は軍隊でこの話を聞いたのかもしれない。一九四七年にスコッチ・テープが発売され、ビング・クロスビー(Bing Crosby)がテープを用いたラジオ放送を開始した(17)。五八年にRCA社が四トラック・マルチ・レコーダーを、六三年にはフィリップス社がコンパクト・カセット・レコーダーを発売した。

 四〇年代のテープ・レコーダーは専門家のものだったが、五〇年代になると家庭にも広がった。しかし家庭でのレコーダーの用途はしばらく曖昧なままだった。デヴィッド・モートン(David Morton)によれば、五〇年代のアメリカでよく見られたテープ・レコーダーの用途には次のものがあった(18)。レコーダーをカメラのように使った音のアルバム制作。テープ・レターの文通。アメリカでは五〇年前後にテープ文通クラブが設立され、朝鮮戦争とベトナム戦争で参加者が増加した。スピーチや語学、音楽の練習にもレコーダーが使われた。ラジオのエアチェックはこうした多様な用途のひとつだったが、五〇年代後半になるとその中心になった。

 環境音の録音もエアチェックと並んで五〇年代にわたって参加者を増した活動だった。カリン・ビスタヴェルド(Karin Bijsterveld)はオランダで「サウンド・ハンティング」と呼ばれたこの活動の概要を論じている(19)。オランダでは一九五二年に最初の国際的なサウンド・ハンティング大会が開催され、五六年にテープ文通協会から派生してオランダ・サウンド・ハンターズ協会(NVG)が設立された。ビスタヴェルドによれば、参加者の関心の中心はハンティングという言葉どおりスポーツのような活動として困難な録音を達成することや、自国文化に根ざした音を記録することだった。

 シュヴァルツの実践は以上のような文脈をふまえて理解する必要がある。テープ・レターや環境音の録音は五〇年代の趣味のひとつだった。しかし、シュヴァルツ自身は録音をスポーツではなく日常生活の一部として捉えていたし、変わりゆくニューヨークで伝統的な音ばかりに関心を寄せることもなかった。次節でシュヴァルツの録音の性格を詳しく見ていきたい。彼以外に、アラン・ネヴィンス(Allan Nevins)もまた四〇年代末よりニューヨークの文化を録音で残そうとした(20)。シュヴァルツ以前に作家として環境音のラジオ番組やレコードを制作した人物には例えば、ドイツからイギリスに渡り、BBCラジオで活動したルドヴィグ・コック(Ludwig Koch)がいた(21)。

 次にシュヴァルツの作品を発表したフォークウェイズ・レコーズについて見ておこう。一九四八年に設立され、現在はスミソニアン博物館の傘下にあるこのレーベルは、ハリー・スミス(Harry Smith)の『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』(一九五二)などで知られ、戦後アメリカの音楽アイデンティティの確立に貢献したと評価されている(22)。このフォークウェイズ・レコーズは環境音のレコードを多数発表していた。タイトルの多くが「サウンズ・オブ」で始まる「サイエンス・シリーズ」はその中心である(23)。このシリーズには例えば、昆虫や海洋生物の音、オフィスや廃品置場の音、鉄道やケーブルカーの音などが収録されていた。シュヴァルツのドキュメンタリー録音もこのシリーズと一緒に紹介されることが多い。アッシュがこのシリーズを作ったきっかけは五一年にニューヨーク自然史博物館の熱帯雨林を再現する展示を手伝ったことだったという(24)。

 サイエンス・シリーズ以外にもハイファイ録音のデモンストレーションを目的とする環境音のレコードがあった。民生用ステレオ・フォノグラフを開発したエモリー・クック(Emory Cook)がフォークウェイズの傘下で運営していたクック・レコーズはそうしたレコードを発表していた。一九四八年に登場したLPレコードはハイファイ録音に対する熱狂を呼び、デモンストレーションのためにさまざまな環境音のレコードが作られていた(25)。

 本節の最後に四〇、五〇年代のニューヨークの状況にふれておきたい(26)。彼がこの大都市の中心に移住した四〇年代半ばは、プエルトリコ系やアフリカ系の移民がニューヨークに殺到しだした時期であり、ヨーロッパ系の住人の郊外への移住も始まっていた。英語を話せない移民のスラムが生まれる一方で、市の土木部長ロバート・モーゼス(Robert Moses)による公共住宅の建設が進められた。シュヴァルツの作品からは工事の音やスペイン語の会話がよく聞こえる。

 大都市での生活がシュヴァルツの広場恐怖症に良い影響をもたらしたとは考えにくい。広場恐怖症の文化史を考察したアンソニー・ヴィドラー(Anthony Vidler)によれば、十九世紀後半に認知された広場恐怖症は当時からメトロポリスの形成と関連づけられ、二十世紀の多くの思想家や芸術家がこの恐怖症と空間の関係に関心を抱いてきた(27)。ストーヴァ―=アッカーマンは録音がシュヴァルツの広場恐怖症を癒やしたと述べている(28)。そうだとすれば、録音は何らかのかたちで彼の都市空間に対する感性に影響をもたらしたと推測できる。彼は録音者と録音装備は状況の最小の参加者であるべきだと考えていた。一方で、録音とは自分にとって生に近づくための手段であるとくり返し述べていた。こうした姿勢が広場恐怖症とどのような関係にあるのか本論文にはこれ以上検討する余裕はないが、さらなる議論のために指摘しておきたい。

 
第三節 サウンド・パターンを聴く──シュヴァルツのドキュメンタリー録音における聴取のあり方

 本節ではシュヴァルツの『レスポンシブ・コード』における電子メディア広告論を手がかりに、彼のドキュメンタリー録音における聴取のあり方を考察する。シュヴァルツはマイクロフォンを通じてニューヨークの音をいかに聴いたのか、彼の録音・編集方法や録音対象にもとづいて検討したい。

 本論文冒頭で述べたとおり、シュヴァルツは電子メディア広告では視聴者に想起させることが重要だと主張した。このことを彼は「共鳴原理(resonance principle)」と呼んだ(29)。彼によれば、印刷メディアによるコミュニケーションは発信者から受信者へと直線的に進み、輸送に喩えられる。ここでは発信者が送った情報が受信者に届かないことやノイズの混入が問題となる。一方、電子メディアによるコミュニケーションは音が空間に広がるように情報を伝達し、届かないことよりも届き過ぎること、情報の過剰が問題となる。そのため後者では受信者に情報を直接送るより、情報に対して自発的に反応させるべきである。この自発的な反応をシュヴァルツは「共鳴」と表現した。

 以上のような主張はやはり、実際に信仰のあったマクルーハンのメディア論にもとづいていると考えられる。前半はマクルーハンが五〇年代から考察していた印刷メディアと電子メディアの対比を、後半は電子メディアに対する参加をめぐる議論を思わせる(30)。マクルーハンもこれらの議論を結びつけるときに「共鳴」という言葉を用いた。

ラジオが人々の意識下の深層に働きかけるとき、部族の角笛や古代の太鼓が共鳴する世界が生まれる。これはこの媒体のまさに本質に備わる性質であり、人の心と社会を反響室に変えてしまう。[中略]オーソン・ウェルズ(Orson Welles)による有名な火星人襲来のラジオ・ドラマは、ラジオにはあらゆる人々を取りこんで全面的に参加させる力があることをはっきり示した。(31)

彼はシュヴァルツと同僚だった時期に発表した『グローバル・ヴィレッジの戦争と平和』(一九六八)で、ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)の「共鳴する間」という概念を参照した。この概念は以後も彼の著作のなかで重要さを増し、『グローバル・ヴィレッジ――二一世紀の生とメディアの転換』(一九八八)では題名候補にもなった(32)。

 マクルーハンが、低精細度のクールなメディアこそ受信者の参加度が高くなる論じたことはよく知られている。一方、コマーシャル作家のシュヴァルツは、受信者の反応を引きだすことのできる内容を検討した。彼自身が音を扱うときの態度を彼はこう表現した。「私はサウンド・エフェクト(sound effect)には興味がない。興味があるのは人々に対する音の効果(the effect of sound)だけである」(33)。サウンド・エフェクトとは受信者に直接送られる情報を補完するものであり、音の効果とは受信者の自発的な反応を引きだすものである。たしかに「デイジー」はそうした効果に満ちていた。少女の数え間違いは視聴者に現実味を感じさせただけでなく、誤りを正そうとする心理的な参加をうながした。また少女のボストン訛りはジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)前大統領を想起させたという(34)。

 シュヴァルツの経歴をふまえると、彼がマクルーハンの議論を吸収しながらこのような広告論を展開できたのは、五〇年代のドキュメンタリー録音を通じて音の効果について学んでいたからだろうと推測できる。マクルーハンが電子メディアの性質を考察しだしたのと同時期に、シュヴァルツは聴き手が自発的に反応するような音に対する認識を育んだのではないか。これより、彼が音の効果に注目していることを示す事例をあげていきたい。しかしその前に、この音の効果という概念をより明確にするために細川周平の「サウンド=効果」をめぐる議論を参照しておく。

 細川は「効果」という概念を「主体に感覚された感性的なものの生成」と定義した上で、ポピュラー音楽をめぐってしばしば用いられる「サウンド」という用語がこの概念に関わることを指摘した(35)。効果と対比されるのは例えば楽曲の構造や意味である。細川は、録音技術と結びついたポピュラー音楽においてサウンド=効果がいかに注目されてきたかを考察する。サウンドが強調された音楽の事例として彼があげたのは、歌詞のはっきりわからない歌声や、クロスビーやエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)のマイクロフォンに依存した唱法である(36)。本論文がこれより示したいのは、シュヴァルツのドキュメンタリー録音にもこうした音の効果の強調が顕著に認められるということである。しかもそうした強調は彼の録音方法や環境と密接に結びついている。彼は環境にマイクロフォンを向けること通じて、細川が「サウンド=効果」と呼んだものに特に関心を寄せるようになり、ここから学んだことを広告に応用したのではないか。彼の実践を録音方法、編集方法、録音対象という三つの側面に分け、順に検討していこう。

 シュヴァルツの屋外での録音はストリート・ミュージックから始まった。当時は録音装置が貴重だったためにミュージシャンも快く録音に応じ、自身の歌声や演奏を確認した。このとき多くのミュージシャンがシュヴァルツの録音方法について「いままでこうやって録音されたものは聞いたことがない」と語ったという(37)。彼が楽曲の展開に応じてマイクロフォンを歌手の口に近づけたり遠ざけたりしたからである。このような彼の録音方法は、細川があげたマイクロフォンに依存した唱法を思わせる。シュヴァルツは環境音の録音についても、音響の良し悪しよりもマイクロフォンを対象に近づけることが重要だと語った。

 シュヴァルツは録音対象の選択について、前もって対象を決めて出かけたことは一度もないと語った。この言葉は彼のドキュメンタリー録音が先に書かれた筋書きにサウンド・エフェクトを付け足すようなものではなかったことを示している。この即興的・ゲリラ的な録音方法は日常生活のなかで録音するという彼の信条にもとづくものだろう。そのために彼はいつでもレコーダーを携帯し、仕事の合間に録音するための装備を考案した。左手のレコーダー本体から伸びたケーブルが袖のなかを通って首を回り、右袖を通って手首のバンドについたマイクロフォンに届くというものである。この装備のおかげで彼はいつも録音対象に接近できた。彼は「録音の背後にある哲学が装備のデザインを決める」とも述べている(38)。

 彼の編集方法も録音と同様、あらかじめ書かれた筋書きを避けていた。先に述べたとおり彼はテープを週末に編集する習慣があり、録音した音をすぐに作品にすることはなかった。彼は素材どうしを関連づけることが編集の醍醐味であり、シークエンスは集められた素材から浮かびあがると語った。『ニューヨーク十九番』の制作中に着想を得た『無数の音楽家たち』は、生活のなかで聴こえる声や音の音楽性に注目した作品である。このレコードに収録された《語のリズム(Rhythm of Words)》には各国語の言葉遊びやスキャット、路上の説教、アナウンサーの声などが収録された。《呼び声と口笛(Calls and Whistles)》には人の注意をひく音が、《リズムと動作(Rhythm and Motion)》は鞠つき、縄跳び、パンチング・バッグの連打、運動のかけ声などが収録され、個々の音の音楽性が浮かびあがるように編集されている。一方、『私の影を踏まないで(You’re Stepping on My Shadow)』(一九六二)に収録された《声の歴史(History of a Voice)》や『子供の録音入門』の《ナンシーの成長(Nancy Glows Up)》は、いわゆる声の肌理を通じて人間の成長や家族のつながりを表現する作品である。これらの作品は編集を通じて音の意味や発生源よりも効果に聴き手の関心を向けようとする。

 シュヴァルツがしばしば作品に使用した音のひとつに、彼が理解できない外国語があった。年々増加する移民の言葉や短波ラジオを通じて聴いた外国語の歌がこうした音に対する関心を育んだと考えられる。彼は言語を学ぶ子供の声や外国語を学ぶ場面、通訳、訛りなども作品に収録した。例えば、『ニューヨーク十九番』に収録された《通訳(Translations)》は外国語の歌のレコードとその同時通訳を一緒に録音した作品である。本論文第一節で、彼が子供の遊びを録音したときに子供どうしで言葉を反復させて教える方法を学び、それをコマーシャルに応用したことを述べた。外国語学習にも通じるこの方法は、音の効果を活かした学習方法である。また彼は『犬の生活(A Dog’s Life)』(一九五八)で人間と動物のコミュニケーションにも関心を寄せた。

 シュヴァルツは、ラジオ番組を原作とする『私の街の音』(一九五六)のライナーノーツに「語りや音楽を含め、この番組の録音はすべてサウンド・パターンとしてとらえられた」と書いている(39)。『レスポンシブ・コード』でも「声のパターン」が考察され、『メディア――第二の神』にも「人々がサンフランシスコを強く感じるサウンド・パターンを構築できた」という表現がある(40)。このサウンド・パターンという言葉には、聴き手に情報を直接送るのではなく、反応や想起を引きだすような音というニュアンスがあるのではないか。これまで見てきたようにシュヴァルツはマイクロフォンを通じてこのような音の効果に耳を傾けていた。そこでシュヴァルツのドキュメンタリー録音には環境のサウンド・パターンを聴きとり、サウンド・パターンを強調する傾向があると言えるだろう。彼の電子メディア広告論はこのような実践を通じて獲得された認識にもとづいていると推測できる。

 
結論

 音響テクノロジーを通した聴取のあり方に対する理解を深めるために、本論文はシュヴァルツのドキュメンタリー録音の性格を考察してきた。彼がさまざまな環境音を日常のなかで記録し、その効果を強調するようにつなぎ合わせることができたのはテープのおかげである。しかし環境音の録音者の誰もがサウンド・パターンに注目したわけではない。本論文が最後に強調したいのは、彼が環境音の録音を通してサウンド・パターンへの認識を深めた過程には、音響テクノロジーだけでなく同時代の文化的要因が関わっていたということである。細川はサウンド=効果が「美的であると同時に社会的である」と述べている(41)。本論文は第三節でマンハッタンの移民の増加と彼の録音対象の関係を指摘しておいたが、この他にも絡み合う多数の要素が彼のドキュメンタリー録音の形成に関わっていたと考えられる。

 シュヴァルツはラジオを通じてフォーク・ミュージックに接し、フォーク・リヴァイヴァルに参加した。彼が語った広義のフォークロアという概念は、彼の実践をいくつかの仕方で方向づけたのだろう。例えば第三節では録音対象にマイクロフォンを近づけるという彼の録音方法に注目したが、この方法は生活のありのままを記録し、生に近づこうとする彼の姿勢と結びついていた(42)。彼が商業録音に向かわずに趣味として日常のなかで録音を実践したことは、ジャンルを越えて環境音を聴き比べる機会をもたらした。シュヴァルツがフォークロアという言葉にこめた意味を正確に理解するには、四〇年代から五〇年台にかけてフォーク・リヴァイヴァルを支えた思想を参照する必要があるだろう(43)。

 議論を振り返るかたちで、さらに二つの文化的要因をあげておきたい。シュヴァルツの録音を世に送り出したのは、彼が長年ホストを務めたラジオ番組であり、世界のフォーク・ミュージックと環境音の学術的録音、ハイファイ録音のデモンストレーションを同時に手がけたレコード・レーベルだった。本論文ではほとんど考察できなかったが、シュヴァルツの広場恐怖症と彼が生活した都市空間、そして録音の関係はさらに広い文脈と結びつく重要な論点だろう。彼のドキュメンタリー録音はこのような要素の関わり合いのなかで形成され、後に電子メディア広告に応用された。この広告への展開を考察するには彼が制作したコマーシャルを具体的に検討していく必要がある。これらの本論文では扱えなかった議論については今後の課題としたい。

 
 

(1)  Cf. Kathleen Hall Jamieson, Packaging the Presidency: A History and Criticism of Presidential Campaign Advertising Third Edition, New York:Oxford University Press, 1996, pp.198-200. Montague Kern, 30-Second Politics: Political Advertising in the Eighties, New York:Praeger Publishers, pp.32-34.

(2) Tony Schwartz, The Responsive Chord, New York: Anchor Books/Double Day, 1973, p.93.

(3) Kathleen Hall Jamieson, “Prof. Kathleen Hall Jamieson on Tony Schwartz.” http://www.tonyschwartz.org/JamiesonInterview.html[2014年12月確認]

(4) John Carey, “Introduction,” in Tony Schwartz, Media: the Second God, New York: Random House Inc, 1981, p.xiv.

(5) 「ドキュメンタリー録音(documentary recording)」という言葉はTony Schwartz “Sounds of My City (Record),” Liner notes, 1956. より。彼のレコードは他にも「テープ・ドキュメンタリー」、「ソノ−モンタージュ」、「サウンド・ポートレイト」、「サウンド・ドキュメンタリー」などと称された。当時から彼の作品はロバート・フラハティ(Robert Flaherty)、ジョン・グリアスン(John Grierson)のドキュメンタリー映画と比較されていた。Herbert Mitgang, “Children at Play: Folkways Disks Offer Street Songs Of Youngsters Here and in Canada,” in New York Times, Jun.10, 1956.

(6)  Thomas Porcello, “Afterword,” in Wired for Sound: Engineering and Technologies in Sonic Cultures, Paul D. Greene and Thomas Porcello eds., Middletown: Wesleyan University Press, 2005, p.270.

(7) こうした議論の一例をあげれば、Cf. 細川周平『レコードの美学』勁草書房、一九九〇年、九二−一〇七頁。

(8) Angus Carlyle, “Steve Feld interviewed by Angus Carlyle,” in Cathy Lane and Angus Carlyle, In the Field: The Art of Field Recording, Devon: Uniformbooks, 2013, pp.211-212.

(9) Tony Schwartz, Richard Kostelanetz, “Interview with Tony Schwartz, American Hörspielmacher,” in Perspectives of New Music, vol.34, no.1, Winter 1996, pp.56-64. Barry Truax, Acoustic Communication Second Edition, Westport: Ablex Publishing, 2001, pp.218-219.

(10) Jennifer Stoever-Ackerman, “Splicing the Sonic Color-Line: Tony Schwartz Remixes Postwar Nueva York,” in Social Text 102, vol.28, no.1, Spring 2010, pp.59-85. 「シュヴァルツの生涯と作品について書かれた初めての長編学術論文」(p.65)。

(11)ただし、彼の著作Media: The Second Godには邦訳がある。トニー・シュヴァルツ『電子メディア戦略』梶山皓訳、産業能率大学出版部、一九八三年。

(12) シュヴァルツの経歴は、特にJoanne Lowe, “Tony Schwartz: Master Tape Recordist”(in Tony Schwartz “Sounds of My City (Record),” Liner notes, 1956.)に詳しい。加えて、主に次の文献を参照した。Schwartz, 1973, pp.xi-xv. Richard Carlin, Worlds of Sound: The Story of Smithsonian Folkways, New York: Smithsonian Books, 2008, pp.238-241.

(13) シュヴァルツが最初にレコーダーを購入したとされる年はテキストによって違いがあり、四五年あるいは四六年。テープ・レコーダーの購入は四七年。彼はアンプリコープ・マグネマイト社、アンペックス社、ナグラ社などのレコーダーを使用した。Cf. Robert Angus, “Tape, talent and imagination,” in Better Listening: Through High Fidelity, vol.3, no.7, July, 1957, p.7.

(14) Tony Schwartz, “New York 19 (Record)” Liner notes, 1954.

(15) Lowe, op.cit.

(16) Cf. Patrick Rogers, Nancy Matsumoto, “Ears wide open,” in People, Oct.4, 1999. Margalit Fox, “Tony Schwartz, Father of ‘Daisy Ad’ for the Johnson Campaign, Dies at 84,” in New York Times, Jun.17, 2008. Sam Roberts, “On the Streets, Discovering the Voice of the City,” in City Boom: Blogging from the Five Boroughs, Nov.8, 2011. http://cityroom.blogs.nytimes.com/2011/11/08/on-the-streets-discovering-the-voice-of-the-city/[2014年12月確認]

(17) Morton, Off the Record: The Technology and Culture of Sound Recording in America, New Brunswick: Rutgers University Press, 2000, p.67.

(18) ibid., pp.140-143.

(19) Karin Bijsterveld, “’What do I do with my tape recorder …?’: Sound hunting and the sounds of everyday Dutch life in the 1950s and 1960s,” in Historical Journal of Film, Radio and Television, vol.24, no.4, 2004, pp.613-634.

(20) Morton, op.cit., p.148.

(21) Richard Ranft, “Capturing and preserving the sounds of nature,” in Aural History: Essays on Record Sound, London: The British Library, 2001, pp.68-70.

(22) Cf. Peter D. Goldsmith, Making People’s Music: Moe Asch and Folkways Records, Washington: Smithsonian Institution Press, 1998. Tony Olmsted, Forkways Records: Moses Asch and His Encyclopedia of Sound, New York: Routledge, 2003. Carlin, op.cit.

(23) ちなみに「サウンズ・オブ」で始まる作品にはジョン・ケージ(John Cage)やウラジミール・ウサチェフスキー(Vladimir Ussachevsky)らの楽曲を収録した『サウンズ・オブ・ニュー・ミュージック』(一九五八)もある。

(24) 環境音の学術的収集については、Cf. Ranft, op.cit., p.71. Joeri Bruyninckx, “Sound sterile: Making scientific field recordings in ornithology,” in The Oxford Handbook of Sound Studies, Trevor Pinch and Karin Bijsterveld eds., New York: Oxford University Press, 2012, pp.127-150.

(25) Roland Gelatt, The Fabulous Phonograph 1877-1977, New York: Macmillan, 1977, pp.297-298.

(26) Cf. C・W・ミルズ、C・シニア、R・K・ゴールドセン『プエルトリカン・ジャーニー──ニューヨークに惹きつけられた移民たち』奥田憲昭、吉原直樹、堀田泉訳、恒星社厚生閣、一九九一年。アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス──ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』渡邉泰彦訳、鹿島出版会、二〇一一年。

(27) アンソニー・ヴィドラー『歪んだ建築空間──現代文化と不安の表象』中村敏男訳、青土社、二〇〇六年、五八−七四頁。

(28) Stoever-Ackerman, op.cit., p.59.

(29)Schwartz, 1973, chap.1.

(30) シュヴァルツはマクルーハンが『メディア論』で語った電子メディアに対する「深い関与(involvement in depth)」を何度も参照している。Cf. Schwartz, 1973, p.104., 1981, p.14.

(31)Marshall McLuhan, Understanding Media: The Extensions of Man, Cambridge: The MIT Press, 1994, pp.299-300.

(32) マーシャル・マクルーハン、クエンティン・フィオール『地球村の戦争と平和』広瀬英彦訳、番町書房、一九七二年、一二八−一三〇頁。浅見克彦「形態としてのメディア、思考のハイブリッド」マーシャル・マクルーハン、ブルース・R・パワーズ『グローバル・ヴィレッジ――二一世紀の生とメディアの転換』浅見克彦訳、青弓社、二〇〇三年、三二〇、三四〇頁。

(33) Schwartz, 1973, p.xiv. Schwartz, Kostelanetz, op.cit., p.60. マクルーハンも、意味ではなく効果に関心が向けられたことは電気時代に生じた基本的な変化であると語っている。McLuhan, op.cit.,p.26.

(34) Greg Goodale, Sonic Persuasion: Reading Sound in the Recorded Age, Urbana: University of Illinois Press, 2011, p.120.

(35) 細川、前掲書、二二一頁。

(36) 同書、八四、二三〇−二三五頁。

(37) Lowe, op.cit. 以下の議論の多くの箇所はこのテキストにもとづいている。

(38) ibid.

(39) Tony Schwartz, “Sounds of my city,” in Tony Schwartz “Sounds of My City (Record),” Liner notes, 1956. この言葉はフォークウェイズ・レコーズから発売された『サウンド・パターンズ(Sound Patterns)』(一九五三)と関係があるのかもしれない。 Cf. Carlin, op.cit., pp.242-243.

(40) Schwartz, 1983, p.48.

(41) 細川、前掲書、二三六頁。

(42) Lowe, op.cit.

(43) フォーク・リヴァイヴァルと環境音の録音の両方に深く関わる人物は他にも、元ウィーヴァーズのメンバーで『野生のオーケストラが聴こえる──サウンドスケープ生態学と音楽の起源』(伊達淳訳、みすず書房、二〇一三年)の著者でもあるバーニー・クラウス(Bernie Krause)がいる。Cf. Ronald D. Cohen, Rainbow Quest: The Folk Music Revival & American Sociery, 1940-1970, Amherst: University of Massachusetts Press, 2002, pp.149-150.

 
本論文は美学会第六三回全国大会(十月六日、於京都大学)における口頭発表「トニー・シュヴァルツの音響ドキュメンタリーにおける「共鳴原理」」に加筆修正したものである。