一九七〇年代の日本における生録文化──録音の技法と楽しみ
『カリスタ』第23号、2017年、84-112頁
※図版は省略しています。[PDF]を参照してください。
一九七〇年代の日本において、さまざまな音の録音を楽しむ「生録」という文化がオーディオ愛好家を中心に流行した。録音家たちはSLや伝統行事の音、野鳥の声といった現実音を録るために、携帯型テープ・レコーダーを持ち歩き、野外でマイクロフォンを構えた。オーディオ誌だけでなく各種の一般誌にも生録についての記事が掲載され、生録専門誌、コンテスト、同好会、ラジオ番組なども生まれた。
音や聴覚をめぐる学際的研究においては近年、歴史的・文化的に構成された聴取のあり方が「聴覚性(aurality)」と呼ばれ、特に音響技術を通じた聴取の研究が盛んである。本論文は一九七〇年代日本の生録文化を調査し、録音家たちがマイクロフォンを通じて現実の音をいかに聞いていたのかを考える。当時、数多く出版された生録入門記事や入門書のなかで、専門家たちは初心者に対して録音機器の扱い方だけでなく、録音とは何か、人間の耳はいかに働くのかといった解説も行っていた。本論文はこうした議論にもとづいて生録文化における聴取のあり方を理解しようと試みる。さらに、日本のテープ録音文化の展開や、オーディオ・メーカー、オーディオ・ジャーナリズム、FMラジオの役割といった生録ブームの背景についても考察し、これらが生録の聴覚性にいかなる影響をもたらしたのかについても検討する。 生録文化においてはステレオ録音の創造性が重視されていた。この認識は上記の多様なコンテクストの関係性のなかから生まれてきたと考えられる。
はじめに
レコーディング・エンジニア、行方洋一は一九七四年に「生録」の流行をこう語った。
生録──ナマロク、ズバリそのまま生録音をつめただけの味気ない言葉だが、今のところほかに適当な言い方がない。野外録音での自然音や、スタジオでの音楽演奏の録音をFMやレコード、テープからのダビングと分けてこう呼んでいる。SE(サウンド・エフェクト)と呼ぶと意味が広がりすぎるし、ドキュメンタリーと呼ぶと何かこう片ヒジ張った感じで気負い立ってしまう。気楽に「音をとりにいこうか」というのにはこのナマロクという言葉しか浮かばない。[中略]
この野外録音、最近急激にファン人口が増えているという。取材に出かけるまでは半信半疑、いざ現場に着いてみると予想以上のラッシュぶりに驚かされた。写真マニアの半分とはいかないまでも、そのまた半分の四分の一は必ず録音機をかついでいる。ブーム・スタンドからミキサー、集音器までをフル装備、三〜四人がグループ になって音どりに熱中しているのもあれば、一人で録勉用のレコーダーを気楽に構えるという図もある(1)。
音楽だけでなくSLや自然、行事の音など、さまざまな音の録音を楽しむ「生録」の流行は一九七〇年代を通して続いた[図版1]。オーディオ誌だけでなく一般誌にも特集記事が掲載され、多くの入門書が出版された。生録用レコー ダーや生録コンテストが登場し、専門誌や、録音を投稿するラジオ番組も生まれた(2)。
近年、サウンド・スタディーズと呼ばれる学際的領域において「聴覚性(aurality)」という概念が論じられている。 視覚文化論における「視覚性」と対比されるこの概念は、歴史的・文化的に構成された聴取のあり方を意味する(3)。この言葉が普及する以前から、聴取の歴史をめぐって日本でもこれまでに音楽論、サウンドスケープ論、音響メディア論などさまざまなアプローチで、多くの研究がなされてきた。近代以降の聴覚性の研究にとって音響技術と聴取の関係を問うことは不可欠であり、録音装置を通じた聴取の研究も盛んである。例えば、音楽のスタジオ・ワークについての研究では、録音に空間性をもたらす方法の歴史が論じられている(4)。一方、ジョナサン・スターン(Jonathan Sterne)は『聞こえくる過去──音響再生産の文化的起源』において、録音技術の黎明期にさかのぼって研究所や公開実験の資料を調査し、録音の「忠実性(fidelity)」という概念が技術と人間の共同作業によって形成された過程をたどった(5)。
このように録音から聴覚性にアプローチしようとする研究の一環として、本論文は一九七〇年代の日本における生録文化を考察する。生録は録音の誕生から一世紀後の文化だが、その流行は当時の多くの日本人、特に若者に、音を録ることを楽しむという初めての経験をもたらした。このとき、専門家は初心者に向けて録音機器の使い方だけでなく、録音とは何か、人はいかに音を聞くのかを論じた。例えば、藤岡誠は「録音は技術だけですべてが解決されるものではないのだ。録音の根本は、われわれが音をどのように理解出来るかという、むしろ認識論といっても良いものだ」と語った(6)。本論文はこうした当時の言説にもとづいて、生録の実践者が録音機器を通じていかに音を聞いていたのかを考える。
生録の流行のなかでオーディオ・メーカー、ジャーナリズム、レコードやラジオといった録音機器以外の音響メディアなどが果たした役割は大きかった。これらは録音技術の展開と同様に生録文化の条件であり、これらの影響は聴取のあり方にも及んでいたと考えられる。当時の聴覚性を理解するためには、これらの役割を通じて生録と社会の結びつきを考慮する必要がある。渡辺裕の言葉を借りれば、「社会やメディアの状況にまで立ち入ることによって、事象をめぐる多様な動きを、その背景にある複数のコンテクストの関係性やそれをめぐる力学の問題として捉えてゆくこと」が、生録の聴取のあり方を考えるには不可欠である(7)。例えば、スターンは先の著作で録音技術と人間の共同作業が同時代の社会──資本主義、官僚制、「保存の精神」と呼ばれる文化──からいかに影響を受けたのかを検討した(8)。そこで本論文はまず、生録の流行の経緯と背景について検討し、これまでまとまった論考がなかった生録文化の全体像をつかむことからはじめる。
生録に関する先行研究をまとめておこう。欧米における生録と同様の文化である「サウンド・ハンティング」をめぐる研究は次のようなものがある(9)。北米の録音技術・文化の歴史をたどったデヴィッド・モートン(David Morton)は、テープ・レコーダーの普及とともに生まれ、消えていった文化として、野外録音や音のアルバムをあげた(10)。カリン・ベイスターフェルト(Karin Bijsterveld)は五〇年代から六〇年代のオランダにおけるサウンド・ハンティングの文化を考察し、この文化の性格として、録音をスポーツのように楽しんだことや、伝統文化にまつわる音を重視したことなどを指摘した(11)。一方、日本の生録は音響技術史の著作のなかでいち早く言及された(12)。評論家である笠木修治や長岡鉄男は、生録をオーディオ文化史のなかに、重要な一段階として、または定期的に起きる現象として位置づけた(13)。特に笠木が七六年に発表した『入門オーディオ文化論』は、生録のような音響機器による創作を重視しながら、電気の科学史からはじまるオーディオ史や、他文化への影響を考察した野心的な著作だった。学術的研究においては、中川克志が『音響メディア史』において生録を取りあげ、カセット・テープの普及にともなう「プロが作った商業用音楽を消費者が自分のものとする活動」のひとつとみなした(14)。
以上の先行研究に加えて、本論文が生録の聴取のあり方について考えるために主に参照するのは、当時のオーディオ・ジャーナリズムや多数出版された生録入門書である。「オーディオ・ジャーナリズム」という言葉は笠木や長岡に倣っている(15)。笠木は『無線と實驗』などの技術誌、『ステレオ』にはじまるオーディオ誌、『FMファン』にはじまるFM誌、『レコード芸術』などの音楽誌を総称して同時代のオーディオ・ジャーナリズムと呼んだ。これらのメディアを舞台にいわゆるオーディオ評論家が議論を展開しており、生録についての言説も主にこうした文脈のなかにあった(16)。
本論文は三つの節からなる。ここで、それぞれの節の方法についてあらかじめ記しておく。第一節は日本のテープ録音文化史を五〇年代から簡潔にたどり、その延長として生録の流行の経緯を論じる。第二節では生録の文化的背景を理解するために、当時の評論において流行の要因としてあげられた事象を調べていく。以上で生録文化の全体像をつかみ、最終第三節で生録文化における聴取のあり方について考察する。冒頭の行方の文章にもあるとおり、生録の対象には音楽も含まれていたが、本論文では基本的に現実音の野外録音における聴取を扱うことにする(17)。「現実音」 とは会話と音楽以外のあらゆる現実の音を指す用語である(18)。現実音の野外録音を選んだ理由はまず、生録文化を代表する実践と考えられているからである。行方も「音楽以外の身の回りの音」が注目されるようになり、生録人口が急増したと語った(19)。また、現実音の録音をめぐる言説では、対象の限定が少ないために、音源よりもまず聴取が論じられがちであることも、本論文がこの実践を選んだ理由である。いわば、音楽と会話という限定を解くことで、 関心が音源から聴取に向かったと言えよう。第三節は生録文化における聴取のあり方を知るために、当時の専門家が生録の技法を解説した言説を分析する。結論では議論をふりかえり、当時の録音の楽しみとは何か、その楽しみが成立した条件とは何だったのかをまとめる。
第一節 生録ブームと一九七〇年代までのテープ録音文化史
本節は生録の流行の経緯を明らかにするとともに、生録文化を日本のテープ録音文化史に位置づける。よく知られているとおり、日本で初めて制作されたテープ・レコーダーは一九五〇年に発売された東京通信工業(現ソニー)の 「テープコーダーG型」だった(20)。五一年に同社が発売した携帯型テープ・レコーダー「M型」は放送業界で用いられ、 同機を担いで街頭取材する漫画の主人公の名前をとって「デンスケ」という愛称で呼ばれた(21)。後に、生録の流行を象徴するレコーダー、ソニー「TC−2850SD」がこの愛称を受け継ぎ、「カセットデンスケ」と呼ばれた。
渡辺裕によれば、五〇年代にはテープ・レコーダーを使った街頭取材にもとづく「録音構成」と呼ばれるドキュメンタリーの方法が主にラジオにおいて確立され、後にテレビだけでなく、ドキュメンタリー・レコードや『朝日ソノラマ』などのソノシートにも「音のルポ」というかたちで展開された(22)。一方、現代音楽の文脈では、東京通信工業のテープ・レコーダーを使った表現の試みが五〇年代にはじまっていた(23)。例えば、瀧口修造を中心に多様なジャンルの若手前衛芸術家が結成した集団、実験工房では、五三年の第五回発表会でテープの逆回転を利用した作品が発表され、五六年には「ミュージック・コンクレート 電子音楽 オーディション」という演奏会が開催された。しかし、生録関連記事のなかで録音構成やミュージック・コンクレートが言及されることは少なかった。具体的な方法や作品、作家名があがることはほとんどなかったようだ。その理由のひとつは、第三節で説明するように、生録の方法の解説がテープの編集よりもマイクロフォンの扱い方を重視していたからかもしれない。これらの文化の影響を理解するには慎重な考察が必要だろう。
ここからはより一般的なオーディオ利用者に焦点を合わせていこう。オーディオに関する著作も多く、生録コンテストの審査も務めた映画評論家の荻昌弘によれば、五〇、六〇年代はオーディオ再生機器の流行から五年ほど遅れて録音機器が流行するという現象が続いた(24)。五〇年代前半に海外製品を中心とする再生機器の流行が起きると、五七年に安価な国産レコーダーがアカイとソニーから発売された。六〇年ごろにステレオ・ブームが起きると、六四年に各国内メーカーが相次いでレコーダーを発売した。技術誌『無線と實驗』は一九六二年より、録音対象を問わない「テープ録音コンテスト」を開催している(25)。録音機器の自作に取りくむ団体「TRK(テープレコーダー研究会)」 の後援を受けたこのコンテストには、すでに音楽だけでなくさまざまな現実音を録音した作品の応募があった(26)。
六〇年代後半になると日本のテープ録音文化は大きく二分化していった。一方で、「ツートラサンパチ」などのハイファイ・オープン・リール・レコーダーが愛好家の人気を得た。こうした機器は重く、容易に持ち運びできるものではなかったが、愛好家はメーカーが主催するコンサート録音会に自分のレコーダーを持ちこんで録音を楽しんだ[図版2](27)。この録音会で録音されるのは、基本的に音楽に限られていた。他方、六五年にフィリップスのカセット・ レコーダーが日本でも発売されると、国内メーカーが後を追い、安価で操作の簡易なモノラル・レコーダーが広く普及した。こうした機器は語学学習や議事録作成など、音楽以外に使用されることが多かった(28)。
そして七〇年代前半、荻は日本にあらためて録音文化の流行が訪れていると考えていた。この流行の要因については次節で検討することにし、本説では経緯のみを追うことにする。七一年に出版された岡田諄編『録音のすべて』は、「〝自分自身の手による〞新しい音の創造」に関心をもったオーディオ愛好家向けの入門書だった(29)。テープ・レコーダーに関するそれまでの著作の多くは機器の解説が中心であり、音楽や会話の録音しか扱ってこなかった(30)。しかし同書は音楽に加えて「ドキュメンタリー音」、「鳥の声」、「効果音」の録音にも章を割いた。七三年には、加藤しげき監修『アマチュア録音入門』、近藤公康『だれにもわかる録音の知識と実際』、『ステレオ週間FM別冊 録音のすべて』 など、さまざまな音源の録音を解説した書籍が相次いで出版され、オーディオ誌『テープ・サウンド』が野外録音特集を二号にわたり掲載した。ソニー「TC−2850SD」が発売されたのも同年だった。同機の登場とともに「生録」という言葉がオーディオ・ジャーナリズムによく見られるようになった(31)。
七〇年代半ばに向けて生録愛好家は数を増していった。七四年の「オーディオ・ユニオン録音コンテスト」の応募作品は二〇六本だったが、七六年の「ソニー全日本生録コンテスト」では一一四七本に達していた(32)。七〇年代半ばにはオーディオ・ジャーナリズム以外にも、総合誌、旅行誌、漫画誌などさまざまな一般誌が生録を特集した(33)。 多くの入門書が出版され、現実音の録音を中心とする入門書も増えた(34)。七五年には生録専門誌『ロクハン』が創刊され、流行が具体的なかたちになった。誌名は「録音ハンティング」の略語である[図版3]。同誌の読者交流ページ「共鳴館」には各地の生録同好会の活動が掲載された。七六年には上記の「ソニー全日本生録コンテスト」が流行 の裾野を広げる一方で、「全日本アマチュア・レコーディング連盟(FJR)」が発足し、「国際アマチュア・レコー ディング連盟(FICS)」に加盟した(35)。またこの年には文化放送で聴取者に生録の投稿を募るラジオ番組「ソニー生録ジョッキー」がはじまった(36)。
七〇年代後半になると流行にかげりが見えてくる。『ロクハン』は七七年から毎年「ロクハンテープコンテスト」 を開催したが、応募作品は回を追うごとに減少していった。そして七九年に『ロクハン』は休刊し、「生録ジョッキー」も終了する。同年以降、生録入門書も出版されなくなる。流行が去っていった要因は何だったのか、本論文は詳しく検討できなかったが、やはり生録が置かれていた状況を考慮する必要があるだろう。『ロクハン』紙面の移り変わりはこの問題に関する示唆に富んでいる。同誌の後期の特集から、読者の関心がさまざまな電子機器や自宅録音に広がっていたことがわかる。生録コンテスト応募作品の中心はドキュメンタリーから電子音や高度な編集を駆使したドラマに移っていった。同誌の副題は創刊以来「生録アドベンチャー」だったが、七七年に「サウンドクリエートマガジン」に変わった(37)。生録が衰退した要因については次節でも引き続き検討する。
本節は日本のテープ録音文化史をたどり、そのなかに生録ブームを位置づけた。遅くとも六〇年代前半には、一般的なオーディオ利用者も現実音の録音に関心をもっていたことが伺える。六〇年代後半になると、テープ録音文化はハイファイとローファイに二分化し、生録文化はこうした展開の後に形成された。二分化したテープ録音文化からいかに生録ブームが生じたのかは次節で詳しく見ていく。七〇年代前半には現実音の録音への関心が広がったことが見てとれる。また、このころから生録の流行がはじまったと考えられる。流行は七〇年代半ばを最盛期として、七〇年代後半より次第に終息していった。
第二節 生録文化の背景──流行の要因をめぐる言説から
生録が流行した七〇年代にこの文化を取り巻いていたのはいかなる状況なのか。本節はこの問いに答えるために、生録をめぐる言説のなかで流行の要因としてあげられた事象を調べていきたい。当時の評論家たちは、録音を楽しむという態度や、現実音を録音する文化がなぜ普及したのかについて、いくつかの要因をあげていた。もっともよく言及されたのは「TC−2850SD」に代表されるハイファイ・ステレオ・カセット・レコーダーの登場だった。七一年にドルビー・システムが普及したことで、カセットの音質が大きく向上し、それまでの大きくて操作の困難なハイファイ録音機とも、小さいが音質の悪いモノラル録音機とも異なる、比較的安価で携帯性に優れたハイファイ・ ステレオ録音機が発売された。こうした機器が生録の流行を招いたことは疑いない。しかし、そもそもこうした生録向きの機器が制作され、生録用として販売されるに至った背景にはいかなる状況があったのか。
まず、生録の前段階として言及されることが多かったのはラジオのエアチェックだった。特にFMラジオの録音の影響がよく指摘された。六二年にNHKがFMラジオのステレオ実験放送を開始し、六六年の『FMファン』創刊がきっかけとなり広く関心を集めるようになった。笠木によれば、六六年の第十五回全日本オーディオ・フェアではエアチェック用のレコーダーが人気を集めた(38)。カセット・レコーダーのハイファイ化にともない、エアチェック人口は急速に増えていった。行方洋一や笠木はこのエアチェックが一般の人々にとって録音という実践の敷居を下げ、録音自体の楽しみを見いだす道を拓いたと論じた(39)。エアチェックは受動的な作業であって生録の創意とは異なると評されることもあったが、笠木はこの文化にも好みの音を求めようとする愛好家の創意を認めようとした(40)。
次に、前節で見たように六〇年代のテープ録音文化が二分化していたことをふまえて、便宜的にハイファイ録音文化とローファイ録音文化に分けて生録の流行の要因とされたものを見ていこう。『ステレオ』や『ステレオ・サウンド』といったオーディオ誌は六〇年代以降のハイファイ録音文化を主導したメディアであり、オーディオの良し悪しを教える評論家はタレントのような人気があった(41)。荻は生録の流行の要因のひとつとして、評論家として活躍していた若林駿介や菅野沖彦ら「スター的な録音制作家」の登場をあげた(42)。例えば、『ステレオ臨時増刊 テープ・ミュージック』が六九年に主催した録音会と「ステレオ・レコーディング・コンテスト」には、先の二人が審査員として参加していた。このようなかたちでオーディオ・ジャーナリズムは録音に対する愛好家の関心を牽引していったと言えよう。笠木によれば、七〇年代のはじめはオーディオ・ジャーナリズムに停滞が訪れた時期でもあり、生録は格好の話題だったという(43)。
オーディオ・マニアの興味を現実音の録音にも向かわせた要因にはドキュメンタリー・レコードもあっただろう。 荻は六八年の『ステレオ 聴く人の創意とよろこび』で「ドキュメンタリー録音」に一節を割き、「これこそステレオの独壇場」と評した(44)。加藤しげきも現実音のステレオ録音が盛んになった理由として「そうしたサウンドの持つ自然な音場のひろがりとか、音場における移動感など、音楽とは異なった音場の性質が、プログラム・ソースとして新しい興味を引くようになった」ことをあげた(45)。岡俊雄は七一年に『ステレオ芸術』誌上で四号にわたり、歴史物、演劇、鉄道、自然など、各種ドキュメンタリー・レコードをまとまったかたちで紹介していた(46)。
他方、ローファイ録音文化に関しては笠木が、六七年ごろにはじまったラジオ・カセット・レコーダーの普及を重視している(47)。彼によれば、エアチェックのためにラジカセを購入した者には、録音会ではなく日常のなかで、写真を撮るように録音しだした者がいた。特に国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンがはじまるなどした七〇年ごろより、旅行にラジカセを持っていき、行先でラジオやカセットを聞いたり、写真のように録音をしたりす る者を見かけるようになったという。そうした者のなかで、もっとも音にこだわり、録音を目的に旅行していたのがSLマニアだった(48)。当時はSLブームの只中であり、七三年には小海線での運転再開という出来事もあった。
「カセットデンスケ」は以上のような七〇年代前半の状況のなかで発売された。中島平太郎は七三年に、オーディオに関する最近の調査では自分の歌や演奏、現実音などを録音したいという要望が高まっており、ハイファイ録音機の利用者は操作がより簡単でより安価な機器を、ローファイ録音機の利用者はより高音質の機器を求めていると書いていた(49)。各メーカーはこうした期待に応えてハイファイ・ステレオ・カセット・レコーダーを発売したと言えそうである。しかし、メーカーはただ要望に応じただけでなく、録音への関心をさらに盛り上げるためのキャンペーンにも力を入れた。
「TC−2850SD」のマーケティングを担当した小川源治は、その発売時の販売戦略を詳細に記録している(50)。小川によれば、ソニーは「単に〈デンスケ〉を意識づけるだけでなく、[中略]生録音というソフトを強く取上げることにした」。そのためにまずアフリカでロケーションを行い、その録音と写真を広告イメージの中心とした[図版4]。 販売店にはデモ・テープを、購入者には入門書を配布して、生録の楽しみの周知に務めた。さらに、愛好家のために ツアーを企画したり、ミキサーや集音器といったアクセサリーを充実させたりするなど、生録という文化自体を売りこもうとした。後には特集記事や「ソニー全日本生録コンテスト」、「ソニー生録ジョッキー」などのスポンサーとなり、オーディオ・マニアの枠を越えて市場を広げようと試みた(51)。七〇年代の生録の流行をこうしたメーカーの戦略を抜きに語ることはできないだろう。
しかも、「TC−2850SD」の販売戦略は二重になっていた(52)。同機のパンフレットには「INDOOR」、「OUTDOOR」という見出しがあり、それぞれに「とりあえず、Hi−Fiカセットデッキとして徹底的にご検討ください」と「おもてに飛び出すデッキ・メカ」というコピーが付いていた[図版5・6]。また「こんな方におすすめします」という説明書きには、まず「室内でステレオ・カセットデッキとしてご使用になる方へ」、次に「野外で自然音をステレオ録音したいという方へ」とあった。笠木は同機について「カセット・デッキを購入しようとしていた特に若い人達は、デッキにもデンスケにも両方に使えるということで注目した」と書いている(53)。したがって、生録ブームの背景のひとつとして再生用ハイファイ・カセット・デッキを求める消費者の増加もあったと推測できる(54)。「TC−2850SD」 の価格は当時の新卒初任給ほどだった。そのため、同機は家庭ではなく若者が個人で所有するハイファイ・ステレオの入口のひとつだったようだ。
ここまで、本節は生録文化の背景を理解するために、生録の流行の要因とされた現象を見ていった。六〇年代半ば以降にラジオのエアチェックが普及し、一般の人々にとって録音がより身近になった。以後、オーディオ・ジャーナリズムやドキュメンタリー・レコードがハイファイ録音文化を先導した。ローファイ録音文化はラジオ・カセット・レコーダーの登場によって活気づけられ、旅行ブーム、SLブームからも影響を受けた。そして、七〇年代初頭にあらわれたハイファイ・ステレオ・カセット・レコーダーが、生録の流行を確かなものにした。この時期の流行を支えたオーディオ・メーカーは生録を、マニアの枠を越えて市場を広げるためのソフトとみなしていた。また、ハイファイ・カセット・レコーダーの販売戦略にはオーディオ消費者の個人化も関わっていたと推測できる。
本節の最後に、前節でもふれた流行の衰退の要因についてもう少し検討しておこう。ベイスターフェルトは、オランダにおけるサウンド・ハンティングが衰退していった要因を、ジェイ・ディヴィッド・ボルター(Jay David Bolter)とリチャード・グルーシン(Richard Grusin)が提唱した「リメディエーション(remediation)」という概念を参照して説明した(55)。ベイスターフェルトによればこの概念は、成功した新しいメディアの多くが過去のメディアの使われ方を自分のものにしているという現象を意味する。そして、テープ・レコーダーというメディアは結局レコードのように使われることになった一方で、これを写真や手紙のように使おうとした試みは当時の文化の移り変わりのために失敗に終わった、と彼女は論じている(56)。日本の生録についてもある程度同様の現象が見てとれるだろう。
そして、生録に関しては先行するメディアの取り入れを失敗したことよりも、後続するメディアが生録に取って代わっていったことの方が顕著である。『ロクハン』後期や同時期の生録入門書から、テープ・レコーダーによる生録の楽しみが新しいメディアやツールに代わられていく現象が見えてくる。例えば、七〇年代末から八〇年代にかけてテープ・レコーダーに代わって、音楽メディアとしてCDやミニコンポが、日常を記録するメディアとしてホーム・ヴィデオが、音による創作のツールとしてシンセサイザーやMTRが、屋外で音を楽しむためのメディアとしてウォークマンが登場した。こうしたメディアの移行は生録の流行を終わらせた大きな要因と考えられる。
第三節 生録の録音術──マイクロフォンは現実をいかにとらえるか
前節まで、生録文化の全体像をつかむために、その経緯と背景を明らかにしてきた。こうした議論は生録文化を「その背景にある複数のコンテクストの関係性やそれをめぐる力学の問題として捉えてゆくこと」のために必要だった。これをふまえて、この第三節では本論文の目的である、生録文化における聴取のあり方をめぐる考察に向かい、そのために当時の専門家が生録の技法を解説した言説を分析していく。ここでは、この技法を「録音術」と呼ぶことにしたい。藤岡が語ったとおり、録音術には録音機器を扱うための知識だけでなく、音についての理解も含まれている。そこで、録音術に関する言説を通じて、生録における音や聴覚についての理解とはいかなるもので、これまで見てきた生録の経緯や背景といかに関わっているのかを検討しよう。先に述べたように、本節は基本的に現実音の野外録音を扱うことにする。音楽や言葉という限定が外れたことは生録文化にとって重要な契機だった。そして、現実音の録音術についての解説では、後にあげるような耳の働きをめぐる議論がよく展開されていた。
第一節で述べたとおり、七〇年代前半の生録ブームのはじまりとともに現実音の録音術について解説する書籍や雑誌記事が多数出版された。そうした解説の多くが中心的に取りあげていたのは、マイクロフォンの扱い方だった。例えば、録音術を実例つきで教える「生録に強くなるレコード Vol.2 ドキュメンタリー・サウンドにチャレンジ!!」の解説は、「マイク・セット(2本のマイクの間隔)」、「風防の効果」、「指向性による音の違い」、「レベルの設定」、「リミッターの効果」、「マイクの持ち方」、「音源を変化させる」という順に進んでいく(57)。一方、藤岡はマイクロフォンの扱いを「アマチュア録音の真髄」とみなし、読者に自由なアレンジメントを促すために「録音の基礎知識とか技術についての原稿はほとんど図解入りでアレンジメントの例を示すが、わたくしは本稿では一切そうしたことは書かないし示さない」と語った(58)。彼が言うとおり、[図版7]のような音源ごとのマイクロフォン・アレンジメント の図解が生録入門書などによく見られた。もし作品をコンテストに送るならば、コンテストの規約にある時間制限のなかでいかに録音を構成するかが問題となるだろうが、一般的な愛好家の関心はそうした構成よりも野外でいかに音をとらえるかということにあったようだ。
第一節の最後で、『ロクハン』後期には電子楽器や自宅録音の記事が増え、副題が「サウンドクリエートマガジン」に変わったことを指摘した。とはいえ、ここまでに参照した文章や著作にも「創造」や「創意」といった言葉がよく見られるとおり、創造という発想は多かれ少なかれ生録全般と結びついていた(59)。結城享は「なぜ録音が趣味たりうるのか──ということを煎じつめてみると、やはりそこには音による一つの世界を作り出すという創作の喜びがあることが最大の共通した理由となっている」と語っていた(60)。菅野沖彦もまた「いわば創造的な、再創造的な録音といいましょうか、音の素材を使って、それを録音再生というメカニズムの中で再創造する」という発想を支持し、「単純な生と似ているとか似ていないとか、原音再生だとか、というふうな非常に短絡した考え」を批判した(61)。相沢昭八郎は二〇年代の電気録音の普及にはじまる「録音ポリシーの推移」をたどりながら、マルチトラック録音やテープ編集だけでなく、ステレオ録音にも創造性があることを強調した(62)。ハイファイ・ステレオ・カセット・レコーダーの普及とともに本格化した生録にとって、このステレオ録音の創造性という発想は重要なものだったと考えられる。また、創造を重んじる姿勢はラジオ自作趣味がオーディオ趣味の源流のひとつだったことを思い起こさせる(63)。
こうした創造の指針として録音術の解説において何度も語られたのが、マイクロフォンと耳の比較だった。宮沢昭による次の文章は、この比較と録音術の関係を簡潔に言いあらわしている。
人間の耳、そのものは、本来、人間にとって大変都合がよくできていて、自分の必要とする音は聞こえ、必要としない音は聞こえないようになっています。[中略]いわゆる雑音に対しては、都合よく聞こえない仕掛けに、生の耳はなっています。ところが、自然の音をマイクで収録しよう、とする方々は、実は、この雑音を意識しだしたとき、音をとるその第一歩が始まるのですから、皮肉なものです。つまり今まで、生の耳が雑音としてごく自然に拒否し、とり除いてくれていたものを、こんどは自然の音を収録する場合、いかに意識的にはねのけて、自分がとろうとする自然の音に、巧みにアプローチするか、これが、佳い音をとる決定打になるからです(64)。
先の「生録に強くなるレコード」のライナーノーツ冒頭でもこうした耳の選択性と生録の録音術が解説されていた。マイクロフォン独特の音のとらえかたを説明するために、菅野は「マイクロフォン・イヤー」という言葉をよく使った。また、目が耳の選択を左右するという説明もよくなされた。例えば、浜辺で耳を傾けると、波音が波とともに動いているように感じられる。しかし、そのステレオ録音を聞いてもただ音量が増減するだけである(65)。マイクロフォンと耳の関係についてのこのような認識が、生録の録音術の基礎にあった。
そして、雑音を意識的に除くことがこの録音術の基本であり、なかでも先に言及したマイクロフォン・アレンジメントはそのためにもっとも重要な方法とされた。生録のアイコンのひとつ、集音器もそのための道具である。源中実はマイクロフォン・アレンジメントの解説のなかで、「点、群、移動音源」という分類を紹介した[図版8](66)。「録音された音源が、二つのスピーカーから再生されたときに、音の構図としていろいろな音源になりますが、そのさいに単独の音像として結ばれるものを、点音源といいます」(67)。この三つの分類は音源の分類ではなく音像、つまり生の音ではなく再生された音の分類であることが重要である。音像とはスピーカーが再生する、方向と距離をもった音を意味する。「点音源とは、音源自身をいうのではなく、むしろ点音像として、再生する音源という方が、正確かもしれません」。ある音源を点音源にするか、群音源にするかは、録音家に委ねられる。録音家によるこの選択は耳が無意識に行なう選択に対応している。点音源として録音するときは、単一指向性マイクロフォンを音源に近づけ、ステレオなら二本のマイクロフォンの角度を小さくして周囲の雑音をできるだけ排除する。群音源として録音するときは、マイクロフォンの角度を大きくして音場を広げる。単一指向性マイクロフォンを使用すると音像の定位感が強調され、無指向性を使用すると雰囲気感が強調される。
こうした議論のなかでも特に興味深いのが、中坪礼治によるカセット・レコーダーのための録音術の解説である。七四年に出版された中坪礼治と高橋三郎による『趣味の野外録音』は、中坪による十年ほど前の講義が元になっていた。この著書では「音は分解してとれ、そして仕上げの段階で音を合成するのだ[傍点は原文では太字]」が、現実音の野外録音の鉄則とされた(68)。音を分解して録音することで雑音を取りのぞき、合成によって思い描いたイメージを具体化するという方法である(69)。しかし、中坪は次著『カセット録音 野外編』で、この方法は当時流行していたステレオ・カセット録音に適さないと考え、別の方法を提案した。ステレオ録音を合成すると音像に違和感が生じがちであり、そもそもカセットはテープを切り貼りして編集することが難しい。そこで、中坪はいわば、録音向きの音源を入念に探すことを、耳の選択性の代わりにしようとした。イメージする音を分解と合成によって創りだすのでは なく、録音家の近くにはっきりした音があり、遠くに雑音があるような「一つのまとまった情景」を意図的に探しだすことを録音術の中心にしたのだ[図版9](70)。「大事なことは何か一つに焦点を合わせ、その音の動きをしっかりとらえることと、はっきり音質の違う音がうまく組み合わさるような時を録音チャンスにすることです」(71)。こうした中坪のカセット録音術は、録音術を変化させるのは技術の展開だけでなく、録音家の創意でもあることをよく示している。
本節は、生録実践者が録音機器を通じていかに音を聞いていたのかを考えるために、録音術の解説を考察してきた。その基本にはまず、原音の忠実な再生を目指すだけではなく、録音を創造的な実践とみなす発想があった。そして、マイクロフォンには耳が無意識に行なう選択がないため、アレンジメントを工夫する必要があるという議論が、この創造の指針となっていた。この議論には生録文化における、音や聴取、録音についての理解が凝縮されていたと言えよう(72)。源中が解説したマイクロフォン・アレンジメントの分類は、音源ではなく音像の区別にもとづいており、アレンジメントの選択が耳の選択の代わりをしていた。さらに、中坪はカセット・レコーダーの普及をふまえて、録音に向いた音源を探すことを耳の選択性の代わりにするという発想を提唱した。
結論
生録における録音の楽しみとは何だったのか。もちろん一概には言えないが、結城の言うとおり「創作の喜び」が流行を支えたのだろう。そして録音術から見れば、マイクロフォンが無差別に拾う雑音のなかから、録音家自身が目標とする音を見つけだすことに、この創作の喜びが感じられたと考えられる。そのために、録音家は録りたい音のイメージを描き、ロケーションとマイクロフォン・アレンジメントを慎重に選択し、必要があればテープ編集に取り組んだ。『ロクハン』の副題「生録アドベンチャー」とは、現実の自然や都市のなかで冒険することだけではなく、マイクロフォンがとらえる音という非日常のなかから目指す音を探しだすことにも当てはまるかもしれない。
こうした生録における聴取のあり方は、FMエアチェックやオーディオ・ジャーナリズムの成熟と停滞、ラジオ・カセット・レコーダーやハイファイ・ステレオ・カセット・レコーダーの登場、オーディオ・メーカーによるキャンペーン、他にも旅行ブームやSLブームといった歴史的条件の下で広く共有されたことがわかった。このような条件が揃わなければ、ステレオ録音術に創造性をみとめ、マイクロフォン・アレンジメントを重視する生録の聴取は別のかたちをとっていたと考えられる。
本論文は生録文化における聴取とその背景の関係について考察してきたが、この問題については別稿でもさらに考察を進めたい。本論文では生録ブームの直接的な要因として言及された事象だけに考察を限定してきたが、より広い視野で同時代の状況を見る必要もあるだろう。またラジオや音楽、もしくは映画や美術といった他のメディアや芸術と生録の関わりも本論文ではほとんどふれられなかった。さらに、本論文が検討した録音術は、主に放送や音楽のレコーディング・エンジニアによる専門知識にもとづくものであり、いわば規範的な録音術である。しかし、生録文化にはこれとは異なる録音術のあり方、より遊戯的で、シリアスではない録音術も広がっていたように見える。このことについても今後の課題としたい。
註
(1) 行方洋一「消えゆく蒸気機関車──C−11を追って」『別冊FMファン 特集・録音の世界』一九七四年、七一頁。「録勉用のレコーダー」とは、授業の録音や語学学習に用いる安価なレコーダー(cf. 近藤公康『だれにもわかる録音の知識と実際』オーム社、一九七三年、八一−八二頁)。
(2) 代表的な書籍や雑誌については本論文第一節を参照。
(3) Cf. 福田貴成「イントロダクション」『表象09』二〇一五年、一五頁。「聴覚による『知覚の物質性』を重視すると同時に『何事かが聞こえうるものとして初めて認識され、分類され、価値を与えられるための諸条件』の検討を通じて見出されるものこそが『聴覚性』である」。
(4) Cf. 谷口文和は「レコード音楽がもたらす空間──音のメディア表現論」(『RATIO SPECIAL ISSUE 思想としての音楽』二〇一〇年、二四〇−二六五頁)で、九〇年代以降の研究を紹介しながら関連する議論を整理している。
(5) Jonathan Sterne, The Audible Past: Cultural Origins of Sound Reproduction, Durham: Duke University Press, 2003, chap.5.(ジョナサン・スターン『聞こえくる過去──音響再生産の文化的起源』中川克志、金子智太郎、谷口文和訳、インスクリプト、二〇一五年。)
(6) 藤岡誠『実用オーディオ講座5 音のハント[録音のたのしみ]』音楽之友社、一九七五年、一頁。藤岡の言葉はスティーヴン・フェルド(Steven Feld)が提唱した「音響認識論(acoustemology)」を思わせる。
(7) 渡辺裕『サウンドとメディアの文化資源学 境界線上の音楽』春秋社、二〇一三年、四一七頁。
(8) Sterne, op.cit., chap.5, 6.
(9) 生録とサウンド・ハンティングの比較については詳しく論じる余裕がない。さまざまな音の録音を楽しむ文化という基本的な共通性はあるが、流行した時期が異なる。また前者がカセット、後者がオープン・リールを主に使用したという違いもある。
(10) David Morton, Off the Record: The Technology and Culture of Sound Recording in America, New Brunswick: Rutgers University Press, 2000, pp.138–143.
(11) Karin Bijsterveld “‘What do I do with my tape recorder …?’: Sound hunting and the sounds of everyday Dutch life in the 1950s and 1960s” in Historical Journal of Film, Radio and Television, 24:4, 2004, pp.613–634. 彼女には音のアルバムについての論文もある。Karin Bijsterveld and Annelies Jacobs, “Storing sound souvenirs: The multi-sited domestication of the tape recorder,” in Sound Souvenirs: Audio Technologies, Memory and Cultural Practices, Amsterdam: Amsterdam University Press, 2009, pp.25–42.
(12) Cf.『オーディオ50年史』日本オーディオ協会、一九八六年、五一一頁。森芳久、君塚雅憲、亀川徹『音響技術史──音の記録の歴史』東京藝術大学出版会、二〇一一年、九三−九四頁。君塚雅憲「テープレコーダーの技術系統化調査」『技術の系統化調査報告』第十七集、二〇一二年、二二一−二二二頁。阿部美春『テープ録音機物語』誠文堂新光社、二〇一六年、四七八−四七九頁。
(13) 笠木修治『入門オーディオ文化論 ヒューマンなオーディオを求めて』未央社、一九七六年、三二−四一頁。長岡鉄男『長岡鉄男の日本オーディオ史1950〜82』音楽之友社、一九九三年、一八〇頁。長岡鉄男『長岡鉄男の日本オーディオ史② アナログからデジタルへ』音楽之友社、一九九四年、一一三−一一四頁。
(14) 谷口文和、中川克志、福田裕大『音響メディア史』ナカニシヤ出版、二〇一五年、一六八−一八八、一九六頁。
(15)長岡鉄男『長岡鉄男の日本オーディオ史1950〜82』音楽之友社、一九九三年、四八頁。笠木、前掲書、六七−九三頁。
(16) オーディオ評論家については、cf. 長岡、前掲書、四二−五三頁。笠木、前掲書、九四−一〇二頁。
(17) 現実音の野外録音の流行と並行する、アマチュアによる音楽の自宅録音、いわゆる宅録の開拓は、ポピュラー音楽史におけるきわめて重要な動向であることは論をまたない。行方の言葉通り、当時は宅録もまた生録と呼ばれていた。例えば、生録専門誌『ロクハン』には創刊号から、自宅録音スタジオ制作を解説する「ロクスタ入門」という連載があった(川田悟「ロクスタ入門 第1回 キミの部屋をスタジオにしよう」『ロクハン』創刊号、一九七五年、一九三−一九七頁)。そして、現実音の野外録音よりも宅録の開拓の方が、後の時代への影響を明確に見てとることができよう。しかし、本論文は録音機器を通じた聴取が当時いかに理解されていたのかという問題意識の下で、あえて生録文化のなかでも特に現実音の野外録音を対象に選んだ。とはいえ、この時代のアマチュア録音文化を総体として理解するには、現実音の録音と音楽の録音の両方を視野に入れる必要があることも確かである。順に議論を積み重ねていくしかないが、これは今後の課題としたい。
(18) Cf. 若林駿介『レコーディング技法入門』オーム社、一九七七年、二一三頁。「現実音は、その名が示すように、われわれの生活を取り巻く現実の音を意味し、いわゆる人のしゃべり、音楽に使われる音以外のすべてを含むものである」。
(19) 行方、前掲書、七一頁。
(20) 『オーディオ50年史』、四六八−四六九頁。
(21) 「デンスケ」という名称は「でん助賭博」に由来するという説もある。オープン・リールをこの賭博で用いるルーレットに見立てたという。保柳健「デンスケの歩み」『テープサウンド』第十一号、一九七三年、一九五頁。
(22) 渡辺、前掲書、四七四−四七八頁。録音構成については、cf. 宮田章「録音構成」の発生──NHKドキュメンタリーの源流として」 『NHK放送文化研究所年報』第六〇集、二〇一六年、一〇一−一七一頁。『朝日ソノラマ』の編集長だった菅野沖彦や、スタッフだっ た藤岡誠は、生録関連記事をよく執筆していた。こうしたつながりについては後の課題としたい。
(23) Cf. 川崎弘二「実験工房の電子音楽」『実験工房展──戦後芸術を切り拓く』読売新聞社、美術館連絡評議会、二〇一三年、二四六−二四八頁。
(24) 荻昌弘「「聴く」から「創る」へ〝録音〞という名の創造」『 別冊FMファン特集・録音の世界』一九七四年、五六−六一頁。
(25) 「本誌主催第1回テープ録音コンテスト入選発表」『無線と實驗』四九巻一一号、一九六二年、九五頁。このコンテストは六七年の第五回まで続いた。
(26) TRKについては、cf. 阿部、前掲書、四〇〇−四〇二頁。
(27) 録音会については、cf. 長岡、前掲書、一八〇頁。
(28) Cf. 上野啓二、長島達夫、森田耕司、菅野沖彦「座談会 カセットレコーダーの可能性をさぐる〈用途はさがせばいくらでも〉」『ステレオサウンド臨時増刊 音楽テープとテープレコーダーのすべて』一九六八年、一六四−一六五頁。
(29) 岡田諄「あとがき風まえがき」『録音のすべて』岡田諄編、風濤社、一九七一年、三頁。
(30) C f . 阿部美春編著『テープレコーダ』日本放送出版協会、一九六九年。浅野尾忠昭『テープレコーダ』日刊工業新聞社、一九七一年。土屋赫『テープレコーダ 装置の知識と使い方』オーム社、一九七二年。
(31) Cf. 市野良典「カセットデンスケTYPEⅢによるフィールドサウンドロケハン実戦記」『ステレオ芸術』第7巻第7号、一九七三年、二〇三−二〇七頁。正岡弘「ソニーカセットデンスケの紹介」『電波科学』第四八四号、一九七三年、八一−八五頁。飯島徹「ソニーカセットデンスケの使い勝手レポート」『電波科学』第四八四号、 一九七三年、八六−八七頁。本論文では「生録」という言葉自体の起源を定めることはできなかった。六〇年代にもコンサート録音会が「生録会」と呼ばれることがあったようだ。このころは基本的に音楽の生演奏の録音が生録と呼ばれていたが、七〇年代になって現実音の野外録音にもこの言葉が使われるようになったと考えられる。
(32) 荻、前掲書、五八頁。
(33) 例えば、六〇年代からオーディオ評論を掲載していた『暮しの手帖』には「家庭録音術入門」と題された記事が掲載された(第二四号、一九七三年、一八〇−一八三頁)。
(34) Cf. 松浦一郎監修『野外録音アクションガイド』朝日ソノラマ、一九七四年。中坪礼治、高橋三郎『趣味の野外録音』日本放送出版協会、一九七四年。若林駿介監修『音の冒険ブック テープレコーダーをかついで自然の中にとび出そう』松下電器産業株式会社、一九七五年。
(35) 「全日本アマチュアレコーディング連盟発足」『テープサウンド』第二〇号、一九七六年、三三六−三三七頁。
(36) なお、七〇年代半ばから八〇年代はじめにはBCLもブームになった。BCLとは「ブロードキャスト・リスニング」の略語で、特に国際短波放送を聴取して楽しむ趣味のこと。BCL文化は生録文化と共通点が多く、『ロクハン』でもよく取りあげられており、両者は同一の文化圏に属していたと言えそうである。
(37) 笠木もまた生録が「サウンド・クリエイティブ」という活動に発展すると考えていた(笠木、前掲書、四二−五九頁)。
(38) 笠木、前掲書、二二−二三頁。
(39) 行方、前掲書、七二頁。笠木、前掲書、一二−一三頁。
(40) 笠木、前掲書、二五−三一頁。
(41) Cf. 長岡、前掲書、五二頁。「当時、評論家は一種のアイドルであり、タレントであった」。
(42) 荻、前掲書、六〇頁。
(43) 笠木、前掲書、三七頁。
(44) 荻昌弘『ステレオ 聴く人の創意とよろこび』毎日新聞社、一九六八年、一二四頁。
(45) 加藤しげき、石田善之、行方洋一『アマチュア録音入門』ラジオ技術社、一九七三年、九七頁。
(46) 岡俊雄「レコード・カタログについて4 さまざまなドキュメンタリー・レコード(1)」『ステレオ芸術』第五巻第三号、一九七一年、一四〇−一四五頁。岡俊雄「文芸レコードなど 演劇・詩・小説等のレコードについて」『ステレオ芸術』第五巻第四号、一九七一年、一三四−一三九頁。岡俊雄「鉄道ドキュメンタリー・レコード」『ステレオ芸術』第五巻第五号、一九七一年、一四二−一四七頁。岡俊雄「ドキュメンタリー・レコード 自然の音、リハーサル録音など」『ステレオ芸術』第五巻第六号、一九七一年、一四八−一五三頁。ドキュメンタリー・レコードについては他にも、cf. 相沢昭八郎「音を記録するということ──ドキュメント・レコードをめぐって」『テープサウンド』第十一号、一九七三年、二〇〇−二〇五頁。岡俊雄「ドキュメント・レコードあれこれ」『テープサウンド』第十一号、一九七三年、二一〇−二一一頁。
(47) 笠木、前掲書、三二−三六頁。
(48) 六〇、七〇年代におけるSLレコードと旅行文化の関係については、cf. 渡辺裕、前掲書、第八章。
(49) 中島平太郎『オーディオに強くなる 新しい音の創造』講談社、一九七三年、二二六頁。ただし、本論文の先の議論も中島の指摘もあくまで便宜的な区分であり、実際は二つの録音文化がある程度混ざっていたのだろう。
(50) 小川源治「生録ブームの立役者〝カセットデンスケ〞」『別冊宣伝会議』第八号、一九七四年、一〇二−一〇五頁。ただし、ソニーがカセット・レコーダーの広告に生録を使ったのは「TC−2850SD」 が最初ではなかったようだ。広告代理店社員としてソニーのカセット・レコーダーを担当し、「生録ジョッキー」に「生録レポーター」 として出演していた室田堯によれば、七二年に発売された「TC−2100P&DマークⅡ」のラジオ広告でもSLや鐘の音の生録を使用したという(筆者による室田堯へのインタビュー(二〇一五年十月二七日、長野)より)。
(51) 小川、前掲書、一〇四頁。
(52) 著者による君塚雅憲、小川源治へのインタビュー(二〇一五年九月十五日、東京)より。
(53) 笠木、前掲書、三七頁。
(54) 音楽を聴く、現実音を録音するという用途の他にも、音楽の演奏を録音するという使いかたも当然あっただろう。ちなみに、「TC−2850SD」のパンフレットでは、想定する用途として、まずカセットデッキ、次に自然音の録音、八ミリ用の録音、会議の収音、音のアルバム、カー・オーディオ、放送の取材と続き、次にグループ演奏の録音がくる。註15で述べたとおり、この時代の宅録の開拓はポピュラー音楽史にとって重要な動向であることは間違いないが、先に記した理由からここでも大きくは扱わなかった。
(55) Bijsterveld, op.cit., p.631.
(56) Ibid., p.631.「[テープ・レコーダーの使われ方と]写真、手紙、ラジオ劇制作、音楽制作とのアナロジーは衰退していった。写真の経験と違って音の経験は簡単に共有できなかった。オランダの社会現象のなかで移住はもはや重要ではなくなっていた。高精細度が音による模倣の化けの皮を剥いでしまった。サウンド・ハンターたちにとって抽象的な音響はあまりに遠い橋だった」。
(57) 石田善之監修「生録に強くなるレコードVol.2 ドキュメンタリー・サウンドにチャレンジ!!」(TW−50008)東芝EMI株式会社、 一九七八年。
(58) 藤岡誠「録音テクニック入門」『ステレオ週間FM別冊 録音のすべて一九七四』一九七四年、六六頁。
(59) 生録を創作と技術の新しい関係の一事例とみなす議論もあった。例えば、次のようなものである。「創作情報媒体の発達と一般化によって、[中略]『メカニズムとエレクトロニクスを通しての芸術創造』という観念を、はっきり、主体的に、身体へ入れることができるようになった」(荻、前掲書、六一頁)。「〝ポストEXPO〞としての創作オーディオの課題は、EXPOと同等、いやそれ以上の成果を創作の原点であるサウンド・クリエータ個人の孤独な作業にもどすことです」(小沢恭至、三枝文夫、若林駿介、和田則彦著『続電気楽器 音づくりの探求』オーム社、一九七五年、一五二頁)。北澤憲昭に倣って、こうした議論を大阪万博以後の「テクノロジー・アートの縮小再生産」論とみなすこともできるだろう(「概説 オルタナティブと制度」『美術の日本近現代史──制度・言説・造型』東京美術、二〇一四年、六五三頁)。
(60) 結城享「はじめにイメージありき──レコーディング・ディレクターとしてアマチュア録音を考える」『テープサウンド』第一四号、一九七四年、二五二頁。
(61) 菅野沖彦「アマチュア録音の楽しみと心がけ」『電磁科学臨時増刊 テープデッキと録音』一九七三年、一六四頁。ただし、菅野は一方で「写実」もまた重視していた(菅野沖彦「録音の対象とそのおもしろさ」『ステレオ週刊FM別冊 録音のすべて』一九七三年、 二四頁)。創造性に重きをおく荻とのやりとりでは、両者の出自の違いに由来する認識の違いが語られた(荻昌弘、菅野沖彦、源中実、 保柳健「座談会 録音の世界とその魅力を語る」『テープサウンド』 第一一号、一九七三年、四六−四八頁)。
(62) 相沢昭八郎、高和元彦、半田健一『録音制作と再生 レコーディングの現場から』オーム社、一九七七年、八−一五頁。「モノーラルにはないステレオ音場の表現力は、音の迫力やリアリティを増すだけでなく、生の音声をデフォルメした新しい創造を可能にし、録音芸術の分野を開拓することになった」。ハイファイの探求がステレオの登場によっていかに変わったのかについての詳細な議論は、cf. 福田貴成「痕跡・距離・忠実性──聴覚メディア史における〈触れること〉の変容について」『表象09』二〇一五年、一二六−一四〇頁。
(63) Cf. Shuhei Hosokawa and Hideaki Matsuoka, “On the fetish character of sound and the progression of technology: Theorizing Japanese audiophiles,” in Sonic Synergies: Music, Technology, Community, Identity, Gerry Bloustien, Margaret Peters and Susan Luckman eds., 2008, Aldershot: Ashgate Publishing Limited, pp. 39–50. 溝尻真也「オーディオマニアと〈ものづくりの快楽〉──男性/技術/趣味をめぐる経験の諸相」『「男らしさ」の快楽 ポピュラー文化からみたその実態』勁草書房、二〇〇九年、一九五−二一八頁。
(64) 宮沢昭「効果音のとり方──ラジオ・ドラマの制作に即して」『録音のすべて』岡田諄編、風濤社、一九七一年、二五七頁。
(65) 中坪礼治、高橋三郎、前掲書、四三−四四頁。
(66) 源中実、保柳健「狙った音源をいかに収録するか」『テープサウンド』第十一号、一九七三年、九二−一〇三頁。源中実「自然音の効果的な録音テクニック」『テープサウンド』第十二号、一九七四年、六三−八六頁。
(67) 源中、前掲書、六四頁。
(68) 中坪、高橋、前掲書、八頁。
(69) 同書、五二−六七頁。現実音の合成という方法については、cf. 保柳健「音の素材と作品 現実音を素材として何を表現することができるか」『テープサウンド』第二一号、一九七六年、一六八−一八一頁。
(70) 中坪礼治『カセット録音 野外編』日本放送出版協会、一九七五年、 四頁。
(71) 同上、三二頁。
(72) 同時代の、録音を通じた聴取のあり方を総体として理解するには、現実音だけでなく音楽の録音についても考察し、両者の共通点や相違点を明らかにする必要がある。宅録機器がオープン・リールからカセットへと移っていったとき、録音についての認識にいかなる変化があったのか。こうした問題を考えるさいに、本論文の議論は一定の意義があるだろう。
図版出典
図版1 『ロクハン』第九号、一九七六年、十二−十三頁。
図版2 『テープサウンド』第二一号、一九七六年、三四三頁。
図版3 『ロクハン』創刊号、一九七五年。
図版4 『テープサウンド』第十三号、一九七四年、九八−九九頁。
図版5・6 ソニー「TC−2850SD」のパンフレット。
図版7 加藤しげき、石田善之、行方洋一『アマチュア録音入門』ラジオ技術社、一九七三年、二八〇頁。
図版8 『テープサウンド』第十一号、一九七三年、九九頁。
図版9 中坪礼治『カセット録音 野外編』日本放送出版協会、一九七五年、三一頁。
本論文は美学会第六六回全国大会(二〇一五年十月十日、於早稲田大学)シンポジウム「アイステーシス再考」における口頭発表「一九七〇年代の日本における生録をめぐる言説」に加筆修正したものである。執筆に当たり、君塚雅憲氏、小川源治氏、室田堯氏から貴重なご助言をいただいた。記して謝辞としたい。
図版1 雑誌『ロクハン』が主催し、日本ビクターが協賛した、大井川鉄道SL録音旅行の様子
図版2 コンサート録音会の様子(新興電機商事主催第六回レコーディング・コンサート)
図版3 『ロクハン』創刊号表紙
図版4 アフリカでのロケーション写真が使われた、ソニー「TC−2850SD」の広告 「デンスケ世界を録る」
図版5 ソニー「TC−2850SD」のパンフレット(左頁)室内での使い方を提案している
図版6 ソニー「TC−2850SD」のパンフレット(右頁)野外での使い方を提案している
図版7 マイクロフォン・アレンジメントの図解の例
図版8 源中実による点・群・移動音源の分類にもとづくマイクロフォン・アレンジメントの図解
図版9 中坪礼治による図解「しまりのある街角の集合音の例」