サロメ・フォーゲリン『ノイズと沈黙を聴く──サウンド・アートの哲学に向けて』
Salome Voegelin, Listening to Noise and Silence: Towards a Philosophy of Sound Art
『アルテス』創刊号、2011年、203-207頁
聴く「私」はいかに成立するのか
音を使った美術作品をサウンド・アートと呼ぶ――現在こうした説明はいかにも苦しい。サロメ・フォーゲリン『ノイズと沈黙を聴く:サウンド・アートの哲学に向けて Listening to Noise and Silence : Towards a Philosophy of Art』(二〇一〇)では、アルヴィン・ルシエやビル・フォンタナのインスタレーションとメルツバウや灰野敬二のパフォーマンスが同列に論じられている。本書はサウンド・アートを定義しようとするのでも、サウンド・アートを概観しようとするのでもないが、フォーゲリンの主張からはこのジャンルの現状の一面が見えてくる。
二〇〇〇年代半ばより英語圏で「音」と「アート」を題名にもつ単著が相次いで出版された。こうした流れの先駆となったのは九九年のダグラス・カーンの著作だろうが、〇六年のブランドン・ラベル、邦訳も刊行されたアラン・リクト、トーマス・ベイ・ウィリアム・ベイリー、セス・キム=コーエン、そしてフォーゲリンと続いている。カーン以外の著者はアーティストでもあり、これらの著作が初の単著のようだ。ラヴェル、キム=コーエン、フォーゲリンの著作は出版社コンティニュアムから刊行され、その音楽部門の「サウンド・スタディーズ」というカテゴリーにおかれている。こうした一連の著作の主張を吟味し、立場の違いや一致を明らかにしていくには、そう長くはないサウンド・アートの歴史をたどり直す必要がある。
サウンド・アート史の出発点をどこにおくかは複数の候補がある。ルッソロが騒音楽器「イントナルモーリ」を開発し、デュシャンが音の出るオブジェ、《秘められた音》を制作したのは一九一〇年代。サウンド・インスタレーションと呼ばれる作品があらわれたのは六〇年代。そして、サウンド・アートという用語が現在に近い意味で普及しだしたのは八〇年代初頭とされる。当時の代表的な展示、例えば「眼と耳のために」展(一九八〇)、「サウンディングス」展(一九八一)、「サウンド/アート」展(一九八三)などのカタログを見ていくと、ティンゲリーやタキス、ジョー・ジョーンズ、バッシェ兄弟の作品のような、音を発するオブジェや彫刻が目につく。これらの作品は聴覚表現と視覚表現の結びつきに重きをおいている。「サウンディングス」展では音楽を視覚的に表現した抽象絵画が展示され、「眼と耳のために」展カタログではものものしい画像とともに自動演奏楽器の歴史が紹介されるなど、音と色やかたちの関係が共通の関心事だったことがうかがえる。
音と造形だけでなく、サウンド・アートは当時より音とその外部の「何か」の結びつきを探求していく傾向があった。例えば、音と場所、メディア、身体、記憶……。この傾向はケージの「音をありのままにする」という主張に対する批判として理解できる。九三年の『Music Today』サウンド・アート特集では、カーンや藤枝守、デヴィッド・ダンらが揃って、ありのままの音を鑑賞するというケージの主張はルッソロから続く「すべての音を音楽化する」プログラムの最終地点であり、ここからはむしろ音をさまざまな文脈と結びつけることに意義があるとうったえている。
ところが、九〇年代の音楽の流れを受けて二〇〇〇年代初頭に相次いだサウンド・アート展ではこの傾向に変化がおきた。「サウンド・アート:音というメディア」展(二〇〇〇)、「ソニック・ブーム」展(二〇〇〇)、「ボリューム:音のベッド」展(二〇〇〇)、「ビットストリームス」展(二〇〇一)、「ソニック・プロセス」展(二〇〇二〜〇三)などには、一般的にミュージシャンとして知られる作家が多数参加し、いわば「再び音自体へ」という移行が見られる。これらの展示の作品には会場に設置されたヘッドフォンだけで鑑賞するものもあり、その評価は物議を醸した。
クリストフ・コックスの批評「形式への回帰」(二〇〇三)はこの変化を簡潔に図式化している。彼はジョン・オズワルドやクリスチャン・マークレイ、ジョン・ゾーンらを、引用やパスティシュを駆使するポストモダニストと呼び、一方、池田亮司、カーステン・ニコライ、フランシスコ・ロペスらを、音や聴覚自体を探求するネオ=モダニストと呼んだ。コックスは後者が、音をありのままにしようとしたケージや、純粋な視覚を強調した美術批評家、クレメント・グリーンバーグら、モダニストの関心を引き継いでいると考えたのだ。
コックスの状況認識、特にモダニストとの関係については大きな議論の余地がある(例えば、グリーンバーグとケージを並べること)。サウンド・アートにおける九〇年代から二〇〇〇年代にかけての変化を説明することは現在も続く課題である。例えば、制作環境のデジタル化という潮流に対する反省として、音や聴覚の再考がうながされたということはいかにもありそうだ。また、この時期にはアラン・コルバンやエミリー・トンプソンら、歴史・社会学者によるサウンドスケープに関する著作が相次いで出版されたことも指摘しておきたい。音とその外部の関係がきわめて多層的かつ一時的であることがあらためて強調されていった。
前置が長くなったが、フォーゲリンの『ノイズと沈黙を聴く』がフォンタナと灰野を同列に論じるのは、こうしたサウンド・アートの動向をふまえていると言えそうだ。つまり、音や聴覚自体への関心の復活とミュージシャンの参加という事情がサウンド・アートという用語の使われかた、特に音楽との区別を曖昧にした。フォーゲリンが「サウンド・アートの哲学」として、エド・オズボーンやジャネット・カーディフとジョージ・ビュレス・ミラーにまじえて、メルツバウや他にもベルナール・パルメジアーニ、シャルルマーニュ・パレスティンらを取りあげるのはこのような状況にかなっている。ただし、ここまでの歴史的整理は状況を説明するために経緯をできるだけ単純化したことは断っておきたい。フォーゲリンはカーンらのケージ批判、音の音楽化に対する批判を共有している。しかし、彼女は音の外部を考慮するのではなく、いわば音の内部にさらにもぐりこんで音楽化を乗り越えようとする。
フォーゲリンが本書の下地とした学会発表に「私はサウンド・アーティストではありません:コンセプトとしての音の探求と視覚的定義の恐怖」(二〇〇六)がある。サウンド・アートという用語に対するアーティストからの批判は少なくない。例えば、ニューハウスの「サウンド・アート?」(二〇〇〇)は、この用語が「音楽の定義には手を触れずに」使われることに不満をあらわしている。一方、フォーゲリンの主張はさらに過敏である。彼女がこの用語を拒否するのは音をいかなるものとも、スコアやアレンジ、作曲者や演奏者、音源、視覚表現、あらゆるかたちの記録とも結びつけたくないという理由からだ。彼女によれば、これらすべては本質的に視覚的で、これらと結びつくと音はどこか損なわれてしまう。ほとんど神経症的な視覚の拒絶がタイトルの「恐怖」にはこめられている。
『ノイズと沈黙を聴く』でもフォーゲリンは序論から明言している。音とその外部の関係はあくまでその場限りで、客観性をもたない。とはいえ、彼女はシェフェールのようにすべての外部から切り離された音自体を考察すべきだと主張するわけではない。「聴くことは文脈に依存するが、その文脈はつかの間のもの」というのが彼女の立場だ。そして本書のテーマはこうである。音や聴覚を通じてリスナーが外界と偶発的、一時的な関係をもつことで、このはかない関係を維持したまま、次第に主観性や時空間の認識が生まれてくるのではないか。「壊れやすく、弱々しく、聞くことや聞こえるものに対する疑惑に満ちた」「音響的主観性」、つまり聴く「私」はいかに成立するのか。
フォーゲリンの探求には哲学的感性論に多くの先駆者がいる。彼女はなかでもベルクソン、ハイデガー、アドルノ、メルロ=ポンティ、クリステヴァらの理論を議論の骨子として取りいれた。しかし率直に言えば、彼女がこうした先駆者の成果を正確に理解しているかは疑わしい。参照の幅広さからからも、自己の主張を補強するために表層を断片的に借用したという印象はぬぐえない。本書が批評よりも理論の構築を目指しているだけに残念なところだ。
とはいえ、フォーゲリンがみずからの聴覚経験の記述を積み重ね、ここから音響的主観性のありかたを浮かびあがらせていく文章は読み応えがある。記述される経験はあくまで偶発的で、つかの間の、主観的なものとされ、記述はレトリックに満ちている。例えば、メルツバウのライブでの経験はこう表現される。「もう誰も私の声を聞くことはできないし、私も外界の音が聞こえない。これが私の世界だ。ノイズに満ちた生活世界が身体にぴったり張りついている。リズムを受けいれ、ひたすら走る。疲労し、眠気すら感じながら音を甘受している」。「私のなかにノイズが流れこみ、その渦のなかで私を内側から破裂させる。そのとき聴覚がノイズを演じ、部屋全体に身体をまき散らす。」このような主観的かつ入念な経験の描写には音楽批評が培ってきたレトリックが生きている。フォーゲリンはこれまであげた他にもアルトー、グレゴリー・ホワイトヘッド、スティーニ・アーン、ロバート・カーゲンベンらの新旧の作品を脈絡なく参照する。これらを解釈するのではなく、作品を聴くときの一時的な経験に主観性すなわち「私」があらわれてくるプロセスを記述するのだ。
フォーゲリンによれば、音響的主観性が生成するきっかけとなるのがノイズと沈黙である。ノイズとは、明確に定義されてはいないが、聴覚から強制的に客観性(音に結びつくさまざまな文脈)をはぎとってしまう暴力的な音を指すようだ。ノイズはリスナーを聴覚に閉じこめるとともにその外部と通じようとする欲求を育む。一方、沈黙は聴く自己を聴くようリスナーにうながす。聴覚にとっての鏡のようなものとフォーゲリンは考える。
二〇〇〇年代初頭のようにミュージシャンがサウンド・アート展に参加して注目を集めるということはもうなくなった。むしろ、はじめから展示もすればミュージシャンと共演もするような作家があらわれている。マークレイのような一部の作家はサウンド・アートというジャンルを必要としなくなるほどの成功を収めた。このような現状のなかで、本書は音をあつかう作家が作品の文脈を重視する視覚表現のシーンに呑みこまれることに警戒を発している。サウンド・アートは音楽でも美術でもないとフォーゲリンは言いたいのだ。こんな主張があらわれた一方で、同じ出版社から刊行されたキム=コーエンの『耳のまばたき:蝸牛殻のないソニック・アートに向けて』(二〇〇九)は、デュシャンの「網膜美術」批判を聴覚に適用して現代美術の文脈を全面的に取り入れようとする。
今後のサウンド・アート批評ではキム=コーエン的な議論がますます求められるだろう。それでも、フォーゲリンの過敏とも取れる警告は記憶にとどめておきたい。音とその文脈の関係は人間の聴覚の制約に由来するのかもしれない。仮にそうだとすれば、やはり音の文脈についてこれからも論じていくべきであり、文脈を欠いた音の可能性も同時に考慮していく必要があるはずだ。