ポール・デマリニス『ノイズに埋もれて』
Paul DeMarinis, Buried in Noise
『アルテス』第2号、2012年、184-188頁
アメリカ西海岸の実験音楽とメディア考古学の共鳴を聴く
CDを読み取るためのレーザー光線を針の代わりに使ってレコードを再生する《エジソン・エフェクト》シリーズ(一九八九〜一九六六)はサウンド・アーティスト、ポール・デマリニスの代表作だ。ビニールとレーザーという別世代の録音メディアの「キメラ」(作家本人がこの語をよく使う)を母体に、さまざまな装置の異種交配がくり返される。ターンテーブルにはビニールのレコードの他にホログラフのレコード、蜜蝋のレコード、太古の陶器が乗った。再生装置はテレビやガイガー・カウンター、注射針などと接続され、歪んだ動きを見せる。七〇年代から活動するデマリニスのキャリアを総括したカタログ『ノイズに埋もれて』に収録された論考で、サウンド・アート研究者ダグラス・カーンはこの作品を、録音の多数の次元を同時に聴かせる装置と評している。
サウンド・アートという用語が普及する八〇年代以前、七〇年代から活動する、音をあつかう作家のカタログが近年見られるようになってきた。テリー・フォックス、パウル・パンハウゼン、デマリニス、昨年はゴードン・モナハン、トリンピン。なかでも『ノイズに埋もれて』は「ポール・デマリニスのコンテクストを論じる」と題された論考集が充実している。カーンの他にメディア理論家のフレッド・ターナー、エルキ・フータモ、元ザールブリュッケン市立美術館館長でサウンド・アートに関する執筆も多いベルント・シュルツらが同時代の芸術、文化や出来事など「コンテクスト」を参照して彼の作品を解説する。現在サウンド・アートがいかに論じられるのか、それぞれの視点を比較しながら考えることができる。
日本ではデマリニスはサウンド・アートよりメディア・アートの作家として知られているかもしれない。特にフータモは彼が提唱する「メディア考古学」を実践する作家としてデマリニスを紹介してきた。メディア考古学とは、メディアとテクノロジーの過去から抑圧され、忘却された歴史を発掘することで、一本道の発展ばかり強調する支配的な歴史に対抗する研究とされる。たしかに、特に九〇年代以降のデマリニスの作品はこうした説明がよく当てはまる。
フータモが賞賛を惜しまないのが、二〇〇六年のアルス・エレクトロニカ受賞作《ザ・メッセンジャー》(一九九八)だ。このインスタレーションは会場に並ぶ三つのアルファベット表示機が電子メールに接続され、受信した文章をそれぞれの仕方で表示するというものだ。インターフェースである三つのアルファベット表示機はAからZが割り当てられた二六個ずつの話す洗面器、踊る骸骨、電解質の詰まったビンで、文字を受け取ると振動したり気体を発生させたりする。この作品はカタロニアの科学者フランセスク・サルヴァによるごく初期の電報の奇抜な構想を元ネタにしている。サルヴァは一九世紀初頭、電線の先に電解質のビンや二六人の人間を結びつけ、電磁分解で生じる気体や電気ショックに反応した叫び声で情報を伝えようと提案した。奇妙なインターフェースに共通するのは、通信が極端に一方向で、受信側だけが情報を得ていくことだ。
フータモによれば、サルヴァの非双方向メディアの構想は当時の社会状況を克明に反映している。文字通り電線につながれた(ワイアード)人間は植民地の奴隷または工場労働者を思わせる。インターネットと関わる作品のほとんどがインターネットをまったく新しいメディアとしてあつかうのに対して、デマリニスのこの作品は説教臭さなしでネットワークの歴史の暗がりを表現する。この作品が受信するメールのほとんどは、どこから送られてくるのか知れない一方向のスパムだ。
たしかにデマリニスの近作はメディア考古学の模範と言えそうで、フータモ以外の論者も基本的には彼の作品をテクノロジー史のコンテクストを参照して評している。だから、ガスシア・ウズニアンが序文で紹介する彼の初期の経歴に、アメリカ西海岸の実験音楽の中心人物たちとの深い交流が見られることを意外に思う人も多いかもしれない。
デマリニスは七〇年代前半、当時ロバート・アシュレイがディレクターだった現代音楽センター(かつてのサンフランシスコ・テープ・ミュージック・センター)に勤務していた。ビル・ヴィオラらとデヴィッド・チュードア《レインフォレストⅣ》(一九七三)の制作に関わり、アシュレイとも共作がある(シンセサイザーを担当)。デマリニスが音楽と言語の関係に関心を持ち続けていることにはアシュレイの影響が見られる。サンフランシスコの科学博物館エクスプロラトリアムに展示された体験型作品《エイリアン・ヴォイセズ》(一九八八)や、CD《ミュージック・アズ・ア・セカンド・ランゲージ》(一九九一)がそうだ。
七〇年代後半、彼は世界で初めてマイクロプロセッサーを使ったアンサンブル、リーグ・オブ・オートマティック・ミュージック・コンポーザーに参加する。このアンサンブルのメンバーで、アシュレイらとソニック・アーツ・ユニオンを結成していたデヴィッド・バーマンとの共作もある(八二年)。彼のデビュー作《ピグミー・ガムラン》(一九七三)や、エクスプロラトリアムの《ミュージック・ルーム》(一九八二)も自動作曲演奏装置で、前者は自動車のダッシュボードに取りつけるための、電磁波に反応して作曲する自動音楽装置、後者は誰にでも演奏できる半自動ギターだ。「六〇年代初頭に作曲家たちは実験音楽に電子音響装置を導入しだした。五〇年代に発展した電子スタジオ機材をコンサートホールに持ちこむのではなく、演奏の不確定性という開かれた世界に適応しやすいように、携帯型の電子テクノロジーを発明し、改良していった」。マイケル・ナイマンの『実験音楽』のこの文章は、若きデマリニスが過ごしたサンフランシスコ実験音楽シーンの描写にふさわしい。
ここで興味がわくのは、実験音楽との関わりや自動音楽装置の開発がその後どのようにメディア考古学に展開していったのかだ。カーンは自動音楽装置の開放性が後に政治や歴史に対するデマリニスの感受性につながったと推測する。一方、ウズニアンはデマリニスが経歴の始めのころから音楽の伝統の外に出て、ひとつしかないオブジェに価値をみとめる視覚芸術の文化に身を置いたと評し、実験音楽からの「跳躍」を強調する。シュルツはデマリニスが音の出る作品をつくる理由を、テクノロジーがますます感覚できない存在になっていく傾向を批判するためという、音楽とは直接関係のない要因から説明する。『ノイズに埋もれて』の論考集には、デマリニスが実験音楽の姿勢をどう受け止めたのか、音を作品の素材に選んだ理由はなんなのかという問いを直接発するような議論は見つからない。
だが、論考集のなかでもデマリニスのデビュー以前の歴史的コンテクストを参照した議論はこの疑問に間接的に答えてくれるかもしれない。というのは、次に紹介するコンテクストはエレクトロニクスを導入した当時の実験音楽と、テクノロジーの過去を発掘するメディア・アートの両方を育んだ土壌と考えられそうだからだ。過去にさかのぼってデマリニスの作品を解説するために取りあげられた歴史的コンテクストは大きく三層に分けられる。
①カウンター・カルチャーとバックミンスター・フラー
ターナーは《ピグミー・ガムラン》の背景として、カウンター・カルチャーのテクノロジー観を参照する。六〇年代アメリカのカウンター・カルチャーが特に批判したのは、テクノクラートや軍産複合体によるテクノロジーを利用した支配だった。管理されたテクノロジーは非人間的で、知性を感情、身体、自然から切り離すものとされた。一方、当時は自動車からLSDまで、若者が新しいテクノロジーの産物を享受した時代でもあった。そんななかでカウンター・カルチャーが手本としたのはバックミンスター・フラーの理論だった。彼は官僚や産業の手から個人がテクノロジーを奪いとり、意識を拡張するためのツールにしようと提唱したのだ。
カウンター・カルチャーの中心地のひとつ、サンフランシスコでデマリニスが制作した《ピグミー・ガムラン》は、産業用のテクノロジーを利用して電磁波という感覚できない現象を意識させる。ターナーはこの作品がフラーの思想に忠実であると指摘し、同時期に同じ思想背景のもとで生まれたアップル・コンピューターとこの作品を並べている。
②ボーイ・メカニック
カーンが参照したのは四〇、五〇年代アメリカの子供文化だ(デマリニスは四八年生まれ)。テレビなど電気製品が普及しだしたこの時期、子供たちはその用途だけでなく、メカニズムに心を奪われた。雑誌『ポピュラー・メカニクス』の子供版『ボーイ・メカニック』や、テレビ番組「ウォッチMr. ウィザード」などが当時の子供の興味の受皿になった。
こうした時代背景に言及したのは実はデマリニス本人だ。亡くなった友人のアーティスト、ジム・ポメロイについて語った文章で、彼はポメロイのような「ボーイ・メカニック」がメディア・テクノロジーの用途を無視し、そのヒエラルキーを混乱させることを好んだと書いている。カーンはこれを参照して、デマリニスもまたそうしたボーイ・メカニックに他ならないと評した。
③テクノロジカル・サブライム
シュルツはアメリカの伝統「テクノロジカル・サブライム」について語る。これは技術史家デヴィッド・E・ナイがアメリカ人のテクノロジーに対する熱狂や発明家の英雄視を説明するために使った語だ。カント以降のドイツ哲学では自然の崇高さが人間に道徳の自覚をうながすとされたのに対して、ヨーロッパよりも厳しい自然に直面したアメリカ人はテクノロジーに崇高さを感じてきたとナイは主張する。
シュルツはこれを受けて、アメリカではドイツとは違う文化とテクノロジーの関係が育ったと語る。ドイツではテクノロジーは文化の手段(に過ぎない)か、両者はときに対立するという考えが根深いのに対して、アメリカではテクノロジーと文化が対等な関係にある。この違いは、デマリニスも作品に使った初期のラジオが、ドイツでは統治の手段という性格が強かったのに対し、アメリカでは双方向コミュニケーションのツールだったことにも見てとれるという。シュルツはこうしたアメリカの伝統がデマリニスの作品にも受け継がれていると考える。
これらはデマリニスの作品を解説するために参照された歴史的コンテクストだが、実験音楽の祖ジョン・ケージともたやすく結びつくだろう。ロサンゼルス出身のケージは六〇年代にフラーに深く傾倒し、ボーイスカウトでラジオ放送を務め、発明家の父親をもつ。これらのコンテクストに照らしてみると、アメリカ西海岸の実験音楽とメディア考古学が緩やかに通じ合う流れとして見えてくる。これをふまえた上で、デマリニスの作品が実験音楽の理論のなかで執拗に問われてきた、音を発する、音を聴く主体のあり方、または偶然性や沈黙というテーマをどうあつかうのか、あらためて考えてみたくなった。