『アルテス』洋書レビュー 3.

スティーヴ・ロデン『…私の痕跡をかき消す風を聴く──ヴァナキュラー・フォノグラフの音楽 1880-1955』
Steve Roden, … I Listen to the Wind That Obliterates My Traces: Music in Vernacular Photographs 1880-1955

『アルテス』第3号、2012年、219-222頁

roden
 
フォノグラフィとフォトグラフィ フィールド・レコーディングという手法

本書はSP盤の復刻音源CDとその同時代の「ヴァナキュラー写真」、そして主に小説から取られた文章の断片からなる。著者のサウンド・アーティスト、スティーブ・ロデンは周囲の雑音に紛れてしまうような微細な音からなる音響作品「ロウワーケース・サウンド」で知られている。本書は彼のコレクションが元になっているという。CDはアメリカのルーツ音楽が中心で、なかには自主制作盤や環境音のサウンド・エフェクトも収録されている。写真のほとんどは楽器や蓄音機を手にした肖像だ。多数の楽器を組み合わせた自作演奏装置に腰かける肖像や、宙を舞う音符が描きこまれたものもある。写真の合間に挿入された文章の断片はハムスン、メルヴィル、ナボコフらの、聴取の経験を表現しようとした一節が多いようだ。出版元はSP盤の復刻アンソロジーを手がけるアメリカの音楽レーベル、ダスト・トゥ・デジタル。このレーベルはルーツ音楽だけでなく録音文化自体にも関心があるようで、レオン・スコットが一八六〇年にフォノトグラフで記録した〈月の光に〉の「録音」も発表している。

ロデンが選んだルーツ音楽はどれも穏やかで、恍惚感に満ちている。SP盤の濃密な針音が写真の色あせのように時間の隔たりを感じさせる。雨音、雪の上を歩く足音など、ときおり挿入される環境音のサウンド・エフェクトはロデン自身の作品を思わせる。鳥や虫の声は本物を録音したようだが、鉄板を叩いたような雷の音はタイトルに人工音と記してある。汽車の音や犬の声など、具体音がコラージュされた楽曲もいくつか選ばれている。CD冒頭に置かれた風の音は、本書タイトルの「私の痕跡をかき消す風」というフレーズを思わせる。針音にまみれたこの録音の発表時期は一九三五年前後とある。本物の風の音を録ったように聞こえるが、道具を使ってつくられた音かもしれない。

環境音の録音を作品として提示する、または楽曲やインスタレーションの素材として使用する、フィールド・レコーディングという手法は現在も音による実践のなかで重要さを増している。ロデンもこの手法を代表する作家の一人だ。定番の水音や鳥の声から機械の轟音、可聴域外の振動まで、無数の音が作品に使われるが、なかでも風の音は近年の作品のなかでは特別な音のようだ。例えばクリス・ワトソンの第一作(一九九六年)の一曲目や、フランシスコ・ロペスの「ウインド[パタゴニア]」(二〇〇七年)などは両者の代表作のひとつだろう。彼らのハイファイな録音を聴くと、風が無数の支流からなる束なのだと気づかされる。一方、ロデンが探しだした三〇年代の風音は口笛のようで、ゆっくりとあらわれては消えてをくり返す。室内から窓の外で鳴る風を聴くような、もしくは記憶のなかで鳴っているような、奇妙な陶酔感のある音だ。

 
本書に収められた写真に映る人物の多くは正装し、自分の人格の一部であるかのように楽器を携えている。ジェフリー・バッチェンらのヴァナキュラー写真研究のように、これらの肖像の細部から、人格と音楽の結びつきや音の視覚表現といった、同時代の文化背景を考察できるかもしれない。また、ロデンがこうした匿名の写真と自主制作盤をふくむ同時代の録音を並べたことで、「ヴァナキュラー録音」という言葉を思い浮かべる読者もいるだろう。

写真と録音の比較は近年のフィールド・レコーディングの実践における顕著な動向のひとつだ。例えば、フィールド・レコーディングに代えて「フォノグラフィ」という用語が使われだしている。この用語は「フォトグラフィ」と対になり、写真家にならってアメリカの諸都市や東京で「フォノグラファーズ・ユニオン」を名のるグループが結成されている。ウィル・モンゴメリーは論文「サウンドスケープを超えて:現代のフォノグラフィにおける芸術と自然」(二〇〇九年)で、近年のフォノグラフィ実践としてワトソンや水谷聖、角田俊哉らの作品を論じた。そのなかで、フォノグラフィという用語の参照先として、ダグラス・カーンの論文「聾の世紀のオーディオ・アート」(一九九〇年)をあげている。録音はこれまで主に既存の文化の複製に使われてきたため、フォノグラフィ芸術はフォトグラフィ芸術とくらべて遅れをとってきた、とカーンはこの論文で主張した。

写真との比較はフィールド・レコーディングの実践や理解にどんな発想をもたらすだろうか。例えば、これまで環境音の録音を理解するために参照されてきた、ミュージック・コンクレートとサウンドスケープ・レコーディングという二つの実践・理論から、いったん距離を取ることができる。原理的には、ミュージック・コンクレートは録音された音のみをあつかい、録音と音源の関係については判断を中止する。他方、サウンドスケープ・レコーディングでは音源のあり方やサウンドスケープとそこに生活を営む人間の関係が重視され、録音はあくまで調査手段とされるか、音源と人間を切り離す害悪とされてしまう。

これらに対して、フィールド・レコーディングと写真の比較は録音による音の変形の意義、録音が音を音源から切り離して固定することの意義をあらためて問いなおすことになる。写真研究ではすでに、写真家やアマチュアによる撮影・現像・収集実践が社会にとって、また個人にとってどんな意義をもつのかがさまざまな視点から検討されている。では、録音の実践という大きな文脈のなかで、環境の音にマイクを向けることはどんな意義をもつだろうか。写真との比較から導かれる発想のひとつがこうした問いかけだ。ここで、写真のモダニズム(フォーマリズム)とポストモダニズムという対立する理論がともに文化と自然の二項対立を前提していたと指摘するバッチェンの議論を参考にしてもいいだろう。録音と音源の対立にも重なるこの二項対立を疑う彼は、写真のパイオニアたちが語った写真を撮影する欲望を考察の対象にしていった。

 
フォノグラフィという用語が使われだした近年のフィールド・レコーディング作品に共通する傾向は何だろう。モンゴメリーはこう語る。「私が知ってほしいのは、現代のもっとも冒険心に富んだフォノグラフィは、この堕落した世界のなかにある神秘的な自然音を写真のように再生させたいなどとは望んでいないということだ。反対に、そういう作品はたいてい、芸術と自然世界の関係のはるかに複雑なあつかい方を含んでいる。もしくは伝えてくれる」。モンゴメリーがあげた作家らは、誰にとっても美しい環境が発する美しい音ではなく、例えば特殊な記憶と結びつく音、つねに身の回りにあるけれど普段は聞こえない音、録音という実践自体を意識させる音などにマイクを向けるのだ。

ロデンが発掘した七〇年以上も前に制作されたサウンド・エフェクトのSP盤にも、このような現代の作家の作品に通じる魅力がある。極端に劣悪な音質のため、いくつかの録音は自然音なのか人工音なのか判別が難しい。環境とその録音のどちらかだけに重心を置くようなフィールド・レコーディング解釈では、この正体不明さを評価することはできないだろう。このいわばウルトラロウファイな環境音は、美しい自然へのあこがれを誘うわけではないが、まったく抽象的でもなく、だからあいまいで個人的な記憶と結びつきやすい。ただし、ノスタルジックな共同幻想を受け容れるような音でもない。安易な共感や没入をさまたげる不可解さ、距離感がつねにあるからだ。

本書の前書きで、ロデンはアビ・ヴァールブルクやハリー・スミスに言及しながらSP盤コレクションを通じて得た経験について語る。収集を続けるなかで、ふと目に止まった一枚のレコードを特に理由もなく手にとり、その聞き慣れたはずの楽曲を再生してみると、どういうわけか心を揺さぶられる。あらゆるコレクターがある程度は共有する体験だろう。音は一度録音されるとたいていコレクションに組みこまれる。そして、コレクションはその大きさにかかわらず、それ自体の個性をもちながら成長するようになる。ロデンが自分の経験をもとに言いあらわそうとしたのは、目的のない収集の実践につきもののこうした現象であり、コレクションと一体になったコレクターがその成長のなかで遭遇する特異な感覚ではないだろうか。ロデンはヴァナキュラー写真も収集と関連づけて考えているようだ。コレクションをかきまわして夜を過ごし、「私はそれぞれの星が大きな星座の一部になるのを目に(耳に)しながら、ひとつの世界をつくりはじめる」。フォノグラフィとフォトグラフィの対比は環境音の収集という実践の意義にも光を当てるように思える。

スウェーデンの作家、ペール・ラーゲルクヴィストの著作から引用された本書タイトル「私の痕跡をかき消す風を聴く」は、ロデンのフィールド・レコーディング観として解釈できる。このフレーズが表現しているのは「芸術と自然世界の関係のはるかに複雑なあつかい方」なのだろう。

 

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