ジョナサン・スターン編『サウンド・スタディーズ・リーダー』
Jonathan Sterne ed., The Sound Studies Reader
『アルテス』第4号、2013年、221-223頁
音や聴覚をめぐる知のアンソロジー
九〇年代より、音や聴覚をめぐる学際的なアンソロジーが多数出版されてきた。サウンド・アートの論考を収めたものも少なくない。『聴覚文化(Aural Cultures)』(ジム・ドゥロブニク編、二〇〇四年)はクリスチャン・マークレイらの作品を紹介し、『ソニック・メディテーションズ:身体、音、テクノロジー(Sonic Meditations: Body, Sound, Technology)』(キャロリン・バーザル、アンソニー・エンズ編、二〇〇八年)ではジャネット・カーディフとジョージ・ビュレス・ミュラーらが、『オックスフォード・ハンドブック サウンド・スタディーズ(The Oxford Handbook of Sound Studies)』(トレヴァー・ピンチ、カリン・ビスタヴェルド編、二〇一二)ではマックス・ニューハウスやデヴィッド・ダンの水中作品が論じられている。作品考察をさらに進めようとするとき、こうしたアンソロジーが助けになる。
音響テクノロジーに関する浩瀚な著作を残してきたジョナサン・スターンの編集による本書もそうした一冊だ。聴取、空間、テクノロジー、集団、芸術、声というテーマごとに章が分かれ、アタリ、キットラー、デリダらの古典から、細川周平『ウォークマンの修辞学』(一九八一)の一節、近年の研究まで、既刊の論考が収められている。芸術をテーマとする章は「ソニック・アーツ:美学、経験、解釈」と題され、音楽論とともにダグラス・カーン、ブランドン・ラヴェルのサウンド・アート論が並んでいる。本書はいわゆるリーダー、参考書なので、アンソロジーとしての特徴は乏しい。しかし、後発なだけにスターンが「サウンド・スタディーズ」(以下SS)と呼ぶ動向を概観する視点がある。最新研究の紹介ではなく、SSがどうあるべきか、スターンの考えるSSの自意識が本書から見えてくる。それが明確に語られた彼の序論を読みながら、SSとサウンド・アートの関係をあらためて考えたい。
カナダのマギル大学で教えるスターンの主著は『聞こえてくる過去:音響再生産の文化的起源』(二〇〇六)だ。十九世紀に加速した諸科学の展開を通じて、現在も音響テクノロジーを支える文化的基盤が形成されていくプロセスを多角的に論じている。テクノロジーと感性の関係をめぐる研究として、ジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜:視覚空間の変容とモダニティ』(一九九〇)と比較できるだろう。スターンの近著『MP3:フォーマットの意味』(二〇一二)はモチーフこそ現代的ながら、音響テクノロジーと音響心理学の長い結びつきをたどる内容で、前著の延長上の議論と言える。そして、彼が編んだ本アンソロジーからは音響テクノロジーだけでなく音の世界の全域にわたる好奇心がうかがえる。
人間世界のなかで音が何をするのか、音の世界のなかで人間が何をするのかを再記述するのがSSだとスターンは語る。「再記述」という言葉に彼の主張がこめられている。SSは学際的な学問で、音響学、社会学、歴史学、人類学、音楽学など多くの分野を参照するが、決して包括的ではない。むしろ、スターンはSSが自分の「知が部分的でしかないと常に意識している」と言う。音とはこういうものだ、耳はこう働く、このような知は領域・時代ごとに変化していく。そこで、SSは各領域・時代の知がどう形成されたのかを説明しようと試みる。自分がもつ知を繰り返し反省するという意味でSSは再帰的で、こうした姿勢のない議論に対してはいつも批判的だ。
スターンが過去の議論に向ける批判は手厳しい。例えば、彼はこう指摘する。テクノロジーでもサウンドスケープでも音の世界の歴史を語るとき、人は過去が現在よりも有機的で信頼できたとみなす傾向がある。SSは同時代の音の世界の急激な変化を受けて流行しだしたと考えられがちだが、実際はたえず音は変化してきたし、学際的研究も行なわれてきた(例えば、二〇年代にはフロイトやハイデッガーらが音響テクノロジーを論じた)。彼が特に槍玉に挙げるのは、マクルーハン、オング、アタリらが説いた聴覚と視覚の比較だ。〈聴覚は球状だが、視覚には方向がある〉、〈聴覚はやって来るが、視覚は対象に向かう〉、〈聴覚は感情に関わるが、視覚は知性に関わる〉といった対比は、なぜそう感じられるのか探求すべき問題であり、議論の前提にすべきではないとスターンは強調する。
彼にとって音や聴覚についての知自体がSSにとっての問題そのものなのだ。知がどう獲得されるかという方法の問題があり、またさまざまな領域の知の争いがある。それぞれが歴史をもち、権力と結びついている。このような知の問題に対して、実践において全面的に向き合っている作家として、スターンがアメリカの音楽家ポーリン・オリヴェロスを挙げているのは興味深い。彼女が唱える「ディープ・リスニング」という実践は、音の世界を調査する方法であり、それを変えていこうとする姿勢を育むものでもある。また同時に、彼女の実践は前衛的音楽全般にいまもある父権的態度に対する批判にもなっているとスターンは指摘する。
オリヴェロスがサウンド・アーティストかどうかはさておき、こうしたスターンの議論を見ていくと、SSの自意識とかつてカーンや藤枝守らが論じたサウンド・アートのそれには共通点が少なくないと感じる。サウンド・アートが音や聴覚の様態を形成するものや、音を通じて人が行なうことに関心を向けるなら、それはいわばSSの実践版だ。だとすれば、スターンが序論後半に記したSSの現状分析は、サウンド・アートの現状を考察する手がかりにもなりそうだ。
彼はこれまでのSSが大きく二つの立場に分かれると考える。耳で感じられた音を強調する立場と、物質の振動としての音を強調する立場だ。「聴覚文化」という用語は前者の姿勢を反映している。この立場は視覚文化論の方法を参照しながら、いわゆる「視覚のヘゲモニー」の撹乱を試みる。スターン自身もかつてはこの人間中心的な立場だったという。
一方、フランシス・ダイソン(『鳴り響く新しいメディア:芸術、文化における没入と身体化(Sounding New Media : Immersion and Embodiment in the Arts and Culture)』二〇〇九)やスティーブ・グッドマン(『ソニック・ウォーフェア:音、情動、恐怖の生態学(Sonic Warfare : Sound, Affect, and the Ecology of Fear)』二〇一〇)らは、感じられた音ではなく振動を議論の核として、その物質性を重視するとともに、聾の問題にもアプローチしようとする。聾はスターンにとっても重要なモチーフで、聾が聴取と並んで本書第一節のテーマになっている。彼によれば、音の世界に関する現代の知を統合する分野である音響心理学では、そこでは健常な聴取と聾の境界がたえず問題になってきた。
個々の議論を掘り下げるには、スターンが選んだ論考に当たればいいだろう。そのときは、それぞれの論考の自意識にも注目してみたい。