キャシー・レーン、アンガス・カーライル『イン・ザ・フィールド──フィールド・レコーディングの芸術』
Cathy Lane & Angus Carlyle, In the Field: The Art of Field Recording
『アルテス』2013年10月号、79-82頁
フィールド・レコーディングから聴こえる自己
環境の音を録音する実践、フィールド・レコーディングに取り組む作家たちは、マイクとスピーカーを通じて何を聴き取ろうとしているのか。本書はロンドン芸術大学に拠点を置くCRiSAP(Creative Research into Sound Arts Practice)の共同ディレクターを務めるキャシー・レーンとアンガス・カーライルによる、18名のフィールド・レコーディストへのインタビュー集だ。今年2月には本書と同名のシンポジウムも開催され、この実践をめぐって議論が交わされた。大英博物館に残された貴重な過去の音源も公開されたという。
インタビュアーであるレーンとカーライルの関心の中心は、フィールド・レコーディングとは何かという問いかけではなく、環境の音を録音する活動にこめられた多様な欲望にあるのではないかと思う。序文で著者たちはいくつかの問いをあらかじめ立てている。順にあげると、「なぜフィールド・レコーディングを始めたのか」、「録音に自分がどう現れていると思うか」、「録音に何を探しているか」と続く。ここからも著者たちの興味が作家の動機や欲望にあることが伝わってくる。この興味はときに作家の価値観や、録音の評価基準をめぐる問いかけへと向かう。
作家たちの答えにはいくつかの大きな傾向があり、それらが対立するように見えるときもある。例えば、録音のドキュメンタリー性を重視するかという問いに対する答えがそうだ。ピーター・キューサックやイアン・ロウズらは音源の調査に時間を費やし、そうすることで音楽から距離を取ろうとする。映画学校出身のブッダディティヤ・チャトパディヤイも音源とその場所の関係を重視する。彼らに対して、笹島裕樹は自分の作品のドキュメンタリー性を否定し、耳に聴こえる音と録音の違いに関心を寄せる。フランシスコ・ロペスは録音を通じた音の変形こそに重きをおく。クリスティナ・クービッシュもまた、脳が音と音源を結びつけたがることを認めながらも、音によって実在しない場所のポートレイトを創ろうとする。こうした姿勢の違いはそれぞれの作品にはっきりと現れているようにも見える。
しかし、この対比は見かけほど単純ではない。笹島は録音するとき、環境を「あるがままの」状態に保とうとする。非現実的な音を志向するロペスやクービッシュも「場」や「場所」の創造という言葉を繰り返し使っている。一方、キューサックは自分がフィールド・レコーディングの「純粋主義者」(ここで言う「純粋」とは録音が無加工であることを指す)ではないと語る。チャトパディヤイは録音をまったく私的な活動としながらも、聴き手とコミュニケーションを取るために映画的物語が必要だと考える。フィールド・レコーディングはドキュメンタリー、音楽、物語の間で揺れ動いている。
フィールド・レコーディングに取り組むきっかけについての問いは、作家たちが置かれていた状況を教えてくれる。アニア・ロックウッド、アンドレア・ポリ、ヤナ・ウィンダレンらは口を揃えたように「システマティックな」作曲手法に対する抵抗感が録音に向かう理由になったと語る。逆に、シンガーだったマニュエラ・バリーレは即興演奏の「アナーキーな」表現に限界を感じて録音を始めたという。一方、ダヴィデ・ティドーニは8才の頃から子供用テープ・レコーダーで遊んでいたと語る。グルーンレコードを運営するラッセ=マーク・リークは録音機材の作動自体に興味をひかれたと答えている。
本書に登場するなかで比較的ベテランの作家たちは、いずれも60年代末から70年代に録音を始めていた。携帯型テープ・レコーダーが手に入りやすくなった時代であり、リュック・フェラーリが《ほとんど何もない》(1967〜70年)を発表し、サウンドスケープ理論が生まれたのもこの頃だ。スティーブン・フェルドはモーグ・シンセサイザーの共同開発者ハーブ・ドイチに録音を習ったという。ジェズ・ライリー・フレンチはニュー・ウェーヴの影響を語る。「私は幸運にも、ニュー・ウェーヴからすべてが音楽であることを学んだ」。
70年代には日本でも「生録ブーム」が起きていた。「デンスケ」のような携帯型レコーダーを持って野外で録音する活動が普及し、各地で生録音会が開かれた。ソニーが「全日本生録コンテスト」を主催し、専門雑誌やラジオ番組もあった。当時の文章を読むと、この頃からすでに環境の音を録音する実践がさまざまな欲望を抱えこんでいたことがわかる。例えば、先行する個人旅行ブームやSLブームが生録の流行にあたえた影響は大きい。それに対して、オーディオ・マニアは生録を音による創作の初めての体験としてとらえていた。ラジオ・ドラマはそうした創作のひとつの型になった。また当時の入門書では、録音がオリエンテーリングや室内ゲームの道具としてレクリエーションと結びつけられた。全日本生録コンテストの審査委員長を務めていたのは、映画評論家として知られる荻昌弘であり、彼は生録を自主制作映画と重ね合わせて、テクノロジーによる芸術のもっとも大衆的な手法と考えていた。
現代の野外録音実践の記録である『イン・ザ・フィールド』のなかで私が特に面白いと思ったのは、録音に自己がどう現れるかという問いだ。例えば、笹島は録音から自分の痕跡を消そうとする。録音中にその場を離れることも留まることもあるが、留まるときは「狩り」のように録音機材を動かしたりはしないという。ただし、彼は録音場所や録音機材の選択に自己が現れているとも付け加える。フェリシティ・フォードも似た趣旨の答えを返している。写真が銃を撃つように撮影できるのに対して、録音はじっと静かに集中する必要がある。彼女にとって、フィールド・レコーディングと静止した身体の内部感覚は切り離せない。録音機材を作動させたまま長く放置することもあるロペスの場合は、その間まったく別の場所で休んでいることもあれば、少し離れた場所で静かに音を聴いていることもあるという。ウィンダレンは録音の間に自分がその音を聴いているということを聴き手に意識させないようにしたいと語る。
反対に、バリーレは自分の知覚を聴き手に伝えることがフィールド・レコーディングの長所であると考える。こうした発想を共有する作家たちは一様に、録音に残る自分の息の音と足音の話をする。ポリは南極大陸の大地を歩く彼女の足音を自分の録音のフェイバリットにあげている。氷河が自分の身体に反応する不思議さに惹かれるのだという。キューサックやチャトパディヤイも録音に二つの音を意図的に入れるようになったと語る。キューサックによれば、足音は相対的位置の基準となり、録音にパースペクティブをもたらすのだ。
フェルドも彼の多くの録音に自分の息の音が残っており、身体の存在が感じられると語る。彼が強調するのは、録音とは自分の聴取の歴史のアーカイブであり、録音という実践は聴取の歴史を聴くことだという発想である。また、彼は録音機材を世界とやり取りするための設備ととらえ、録音の喜びは音と聴取を通じて社会性を高めることなのだと主張する。こうした理解は彼の人類学者としての思考から生まれたものだ。フェルドにとって録音は社会について、つまり事物と他者と自己の物質的共存関係について、考えるためにある。フィールド・レコーディングはこのテーマに取り組む二つの領域である芸術と人類学を結びつける。
フェルドの言葉は本書のハイライトのひとつだろう。ただし、私は録音のドキュメンタリー性と同じように、録音に現れる自己についての一見相反する答えは、実際は複雑に絡み合っているのではないかと思う。