『アルテス』洋書レビュー 6.

ロバート・スコット『ムーンドッグ──6番街のバイキング』
Robert Scotto, Moondog: The Viking of 6th Avenue

『アルテス』2013年12月号、114-118頁

scotto
 
視覚障害とサウンドスケープ

通名「ムーンドッグ」ことルイス・ハーディンは1940年代からおよそ30年間にわたりニューヨークの街角に立ち、自作の楽器を演奏し続けた。パーカッションを中心とする彼のスタイルはクラシック、ジャズだけでなく、北米先住民、ヒスパニック、日本などの音楽の影響が入り混じる、とてもオリジナルなものだ。彼の音楽は後にミニマル・ミュージックの先駆者となる若き作曲家たちに大きな影響をあたえた。実際、ムーンドッグは60年代にスティーブ・ライヒ、フィリップ・グラス、ジョン・ギブソンと4人でグループを組んでおり(その録音は出版社のサイトからダウンロードできる[http://processmediainc.com/moondog-2nd-edition/])、グラスの家に1年近く間借りしたこともあった。グラスは本書の序文で当時のエピソードを語っている。「彼は黒人やユダヤ人が好きでないと言っていた。私もユダヤ人かと聞かれ、そうだと答えた。そのとき、彼はなぜこんなことが起こるのか、なぜ最良の友人たちはみなユダヤ人か黒人なのかと思い悩んでいた。ひどく悲しそうで、ままならない境遇に困惑していた」。そのコスチュームから「6番街のバイキング」と呼ばれたムーンドッグの複雑な人間性がかいま見えるエピソードだ。

ロバート・スコットによる本書、『ムーンドッグ:6番街のバイキング』が出版されたのは2007年だが、同タイトルの伝記ドキュメンタリー映画[http://thevikingof6thavenue.com/]の公開が来年に予定されているためか、今年になってペーパーバッグ改訂版が発売された。ムーンドッグは前述のとおり現代音楽史に関わる作曲家であり、また人間性、活動などすべてが特異な人物であるにもかかわらず、まとまった研究は本書が初めてのようだ。英文学者であるスコットの関心は主にムーンドッグの生涯にあると思われ、本書には幼少時の家庭環境に始まる実に詳細な記述が詰まっている。反面、その音楽性や思想に関心をもって本書を手にとると、残念に思うかもしれない。それでも、事実の蓄積からムーンドッグを軸とするさまざまな同時代の文化の交差が浮かびあがるところが本書の魅力だ。

例えば、幼いハーディンはいわゆる「ティンカー」、つまり器用に物をつくりだす子供だったという。彼は『ポピュラー・メカニクス』や『ポピュラー・サイエンス』といった雑誌を片手に、地下室や納屋の屋根裏で木を削り、楽器づくりに没頭した。こうした経験がハリー・パーチとも比較される彼の創作楽器のルーツになった。このエピソードからはアメリカ実験音楽と発明の結びつきの強さがあらためて見てとれる。ハーディン少年の器用さと技術に対する好奇心は、彼の一生を左右することにもなった。少年は16才とき、線路わきで見慣れない部品を拾い、持ち帰って分解しようとした。その正体は先日の洪水で工事現場から流れてきた雷管だった。爆発事故で失われた少年の視力は二度と回復しなかった。

時がたち50年代、日々ニューヨークの街角にたたずむムーンドッグは当時のアンダーグラウンド・スターのひとりだったという。彼は反ベトナム戦争集会でも演奏し、ときに抗議のマイクをにぎった。彼の元へ「巡礼」し、彼を援助した有名人のリストはそうそうたるものだ。デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、チャーリー・パーカーら黒人ジャズメン。政治家パーシー・サットン、カシアス・クレイ、マーロン・ブランド。ジョン・ケージもそのひとりだった。南部で育ち、人種差別気質もあったムーンドッグの音楽は、皮肉にも黒人とユダヤ人に受けいれられ、ジャズとミニマル・ミュージックの接点のひとつになった。もちろん、彼の音楽を評価したのは黒人とユダヤ人だけではなかった。ニューヨーク交響楽団指揮者のアルトゥール・ロジンスキはもっとも早くからの理解者のひとりだった。ムーンドッグが通名をめぐってアラン・フリードを訴えたときは、アルトゥーロ・トスカニーニの援助があった。自主制作ではなく、レコード会社からの最初のリリースとなった「ムーンドッグ オン・ザ・ストリーツ・オブ・ニューヨーク」(1953年)をプロデュースしたトニー・シュヴァルツも、そうした援助者だった。

 
私が本書を手にとった大きな理由に、このシュヴァルツとムーンドッグの交流について知りたかったというものがある。50年代初頭、ニューヨークの郵便番号19番地域で聞こえる多種多様な音を収集したレコード「ニューヨーク19」(1954年)を制作していたシュヴァルツは、このプロジェクトの一環としてムーンドッグの作品を発表した。後にコマーシャル・プロデューサーとなったシュヴァルツはムーンドッグの音楽をたびたび使用し、使用料の支払いで彼を援助したという。私は、このようなビジネス・パートナーとしての交流の背景に、両者が共有する独特な感性があったのではないかと思う。そして、ムーンドッグの音楽を理解しようとするとき、この感性はこれまで注目されてきた音楽性とは別の観点をもたらすだろうと考えている。

このことを説明するために、本題からは外れるがシュヴァルツの経歴を簡単に紹介したい。1923年にニューヨークに生まれたシュヴァルツは、40年代後半よりテープ・レコーダーを屋外に持ちだして都市の音を録音する活動を始める。広告デザイナーだった彼はいわば趣味として、習慣として録音を始めたようだ。当時、マンハッタンは戦後の建設ラッシュで急速に姿を変えつつあり、ムーンドッグのようなストリート・ミュージシャンも日に日に増加していた。シュヴァルツが日々の仕事の合間に続けた録音は膨大な量になり、彼はその一部をラジオで放送するようになる。また、録音をいくつかのテーマ別に編集したものを、アメリカのルーツ音楽や世界の民族音楽を扱うフォークウェイズ・レコーズから発表した。さらに、シュヴァルツは50年代末から録音の経験を活かしてラジオやテレビのコマーシャルを手がけるようになる。1964年の大統領選挙でリンドン・ジョンソン応援コマーシャルとして放映された、通称「デイジー」が彼の仕事のなかでも特に知られている。シュヴァルツはその後も都市の録音を継続しながら、マーシャル・マクルーハンと交流を結んでメディア理論の著作を執筆し、また禁煙、エイズ予防、反核などの市民運動にも積極的に参加した。

このような経歴をもつシュヴァルツとムーンドッグの興味深い共通点のひとつは、視覚障害の経験だ。偶然にも同じ16才のとき、シュヴァルツは一時的な心因性の視覚障害をわずらい、6ヶ月間視界を完全に失っていた。彼はこのときの経験が音響世界や録音に対する関心をより深めたと語っている。ふたりのもうひとつの共通点は、サウンドスケープに対する感性だ。シュヴァルツは「サウンドスケープ」という用語がつくられるずっと前から、ストリート・ミュージシャンが奏でる音楽だけでなく、マンハッタンの子供や大人の会話、機械の騒音、生活や自然の物音などを記録して、レコードにしていた。

スコットの記述によると、あるときムーンドッグはクイーン・エリザベス号の霧笛と同じキーでフルートを吹いていたという。CBS社屋の建設中には、周囲の騒音がうるさくて「目が見えない」と不満をもらしたとも書かれている。シュヴァルツはムーンドッグが霧笛に合わせて演奏するのを録音し、アメリカン・エアラインズのラジオ・コマーシャル「都市のサウンド」シリーズに使用した。彼がプロデュースした「ムーンドッグ オン・ザ・ストリーツ・オブ・ニューヨーク」からも、霧笛や路上の騒音が聴こえてくる。

 
私が気になるのは、視覚障害とサウンドスケープの関係がムーンドッグとシュヴァルツの作品にどのような影響をもたらしたのかということだ。視覚障害心理学においては、障害と聴力の関係には未解決の問題が多いという。実験によると、音高、リズム、音色といういわゆる音楽的感覚の判断には視覚障害者と健常者の間に有意な差は見られない。一方、音の強さの判断は視覚障害者が優秀だった。原因は、視覚障害者が自分と物体の距離を知るために音の響きの変化を利用しているからではないか、と推測されている。こうした心理学的アプローチもムーンドッグのスタイルの形成を理解するために参考になるかもしれない。本書には彼の視覚障害にまつわるエピソードも豊富に収集されている。戦後のニューヨークで視覚障害者がどのような生活を送っていたのかという、聴覚文化論的視点から本書を読みとくこともできるだろう。

 

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