『アルテス』洋書レビュー 7.

ホリー・ロジャース『ギャラリーを鳴り響かせる──ヴィデオとアート−ミュージックの誕生』
Holly Rogers, Sounding the Gallery: Video and the Rise of Art-Music

『アルテス』2014年2月号、82-85頁

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ヴィデオ・アートの2つの系譜

本書のもっとも目立つ主張は、ヴィデオ・アートは「ヴィデオ・アート–ミュージック」であるというものだ。1960年代半ばにナム・ジュン・パイクらが創始したヴィデオ・アートというジャンルはこれまで、主に美術の文脈において論じられてきた。また、その理論の中心にはたいていヴィデオという装置に特殊な機能が置かれてきた。ロジャースはこれに対して、ヴィデオ・アートを美術とそして音楽という二つの系譜に連なるジャンルとみなして、その出現を二系譜の絡み合いとして理解しようとする。そうすることで、彼女はヴィデオ自体をヴィデオ・アート論の中心から外し、その代わりに長い歴史をもつ諸実践のネットワークを強調する。「アート–ミュージック」という造語にはこのような意味が込められている。

ロジャースの姿勢は、リズ・コッツやブランデン・ジョセフといった、50、60年代のアメリカにおける美術と音楽の交錯に注目する美術史家のものと共通している。とはいえ、彼女の主張に対する評価は、本書で主に取りあげられる60年代の初期ヴィデオ・アートに関して、美術だけでなく音楽の系譜をも参照することでどんな新しい理解がもたらされるかにかかってくる。

 
近年、イヴォンヌ・シュピールマンとクリス・メイ=アンドリュースによる体系的なヴィデオ・アート研究が翻訳され、日本語でもこのジャンルを理論的に概観できるようになってきた。両者の議論を見ていくとたしかに、ヴィデオという装置自体の機能がその中心に置かれている。シュピールマンはヴィデオの機能を映像メディアと比較して、再帰的プロセスをヴィデオに独自なものとみなし、これにもとづいて個々の作品を解釈していく。メイ=アンドリュースはカッティングやミキシングといったヴィデオの技法を整理し、作品の分類に活かしていく。もちろん、ロジャースがヴィデオの機能にまったく言及しないわけではない。しかし、彼女が注目するのはあくまで、美術と音楽という二つの系譜の絡み合いに関わる機能に限られる。

ヴィデオ・アート–ミュージックという言葉に込められたロジャースの姿勢は、主だった初期作家の経歴を見ていけば、それほど意外なものではない。パイク、スタイナ・ヴァスルカ、ロベール・カエン、トニー・コンラッドらは音楽出身で、同時代の音楽の展開からさまざまな影響を受けてヴィデオを用いた制作に取り組んだ。先行する研究でもこうした事情は指摘されている。そこで、ロジャースがいかにこうした美術と音楽の交錯を論じたのかが問題になる。

本書の構成を大きく分けると、第1章から第3章までが前半、第4、5章が後半になるだろう。前半は初期ヴィデオ・アート–ミュージックが置かれた状況やその前史が、後半は個々の作家の多様な活動や手法が論じられる。第1章では、初期ヴィデオ・アート–ミュージックの作家たちの実践を手がかりに、テクノロジーを用いていわゆる「物語世界外の」イメージと音をつくりだす実践の概要が描かれる。ロジャースはこの実践を見渡しながら、ヴィデオが初めて視聴覚を完全に同期させた装置であると指摘する。しかし、彼女が強調するのはヴィデオの独自性よりも、異なるテクノロジーどうしの結びつきである。第2章は視点を変え、色彩オルガンや象徴主義絵画などから始めて、現代美術と音楽における共感覚の探求の歴史をたどる。ここではレッシングの古典的な議論からニコラス・クックのマルチメディア論まで、関連する理論も簡潔にまとめられている。

絡み合う二つの系譜を追うというロジャースの方法がもっとも成果をあげているように見えるのは、第3章から第4章への展開だ。第3章では、ラズロ・モホリ=ナジ、ジークフリード・ギーディオン、クレメント・グリーンバーグらの議論を参照しながら、現代美術と音楽の展開のなかで空間という主題が強調されていく過程がたどられる。そしてこの系譜をふまえ、第4章でロジャースは現実のさまざまな空間への拡張という視点から、初期ヴィデオ・アート–ミュージック作家の活動を年毎に追っていく。第5章では、70年代以降のヴィデオ・アート–ミュージックの実践が、本書前半で議論されたさまざまな系譜をいかに延長させていったかが考察される。

 
本書の表題「ギャラリーを鳴り響かせる」(他動詞のサウンドには「鳴らす」という意味の他に「測る」という意味もある)は、第3章から第4章への展開と関わっている。ロジャースは第3章で、ブライアン・オドハティの「ホワイト・キューブの内側で」(1976年)とクリストファー・スモールの『ミュージッキング』(1998年)の議論を重ね合わせる。20世紀半ばの美術と音楽にはともに、展示やパフォーマンスのための特権的な空間を解体し、柔軟で分散した諸空間を再構築しようとする動向があらわれる。ロジャースによれば、この動向の延長として、初期ヴィデオ・アート–ミュージックはそれまでの中立的なギャラリー空間に次の三つの変化をもたらした。ひとつは、作品の構成のなかにパフォーマンスや観客のための空間を取りこむことで、環境を活性化する。次に、静止した物体に満たされた空間に運動するイメージを置くことで、時間の要素を導入する。最後に、無音の空間に音と音楽を鳴り響かせる。彼女はヴィデオ・アート–ミュージックが美術の文脈において、インスタレーションの分流として解釈できることを強調する。ヴィデオ作品は「ギャラリーのなかに空間的、時間的、そして聴覚的に拡張していった」のだ。

ロジャースはこうした認識にもとづいて、第4章でヴィデオ・アート–ミュージックの発生を一歩ずつ跡づけていく。例えば、1968年という時期には重要な意義が見出される。なぜなら、同年は空間をめぐるヴィデオ作品の実践の多様化が加速した年だからだ。一方で、「サイバネティック・セレンディピティ」展が各国を巡回し、ニューヨーク近代美術館では「マシーン」展が開催された。ケルン州のテレビ局WDRはオットー・ピーネとアルド・タンベリーニによる《ブラック・ゲート・ケルン》を放送した。他方で、ニューヨークのコメディエイション、サンフランシスコのアント・ファームやランド・トゥルース・サーカス、エレクトリック・アイといった、ヴィデオ作品を専門にあつかう小規模な空間が次々とつくられたのも同年だ。また同時に、テリー・ライリーのような音楽家がコンサートにヴィデオを積極的に持ちこむようになった。このように、ロジャースは現実の多様な諸空間への拡張という視点から、美術と音楽という二つの系譜がヴィデオ・アート–ミュージックにいかに流れこみ、そして展開していったかを説明するのである。

 
繰り返すが、冒頭に書いた本書の主張は、初期ヴィデオ・アート-ミュージックの作家たちの活動を理解していれば、さほど意外なものではない。しかし、2つの系譜の絡み合いが明確に浮かびあがる視点として、とりわけ空間をめぐる実践に注目したことで、本書は先行する研究に新たな理解を加えている。たしかに、この視点はヴィデオの機能を中心とする理論からは抜け落ちがちだろう。ロジャースが語るヴィデオ作品は、テクノロジーについても、感覚についても、ジャンルについても根本から中間的なものなのだ。

 

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