アンドレイ・スミルノフ『サウンド・イン・Z──20世紀初頭のロシアにおける音の実験と電子音楽』
Andrey Smirnov, Sound in Z: Experiments in Sound and Electronic Music in Early 20th Century Russia
『アルテス』2014年4月号、93-97頁
十月革命後のロシアに開花した音の実験
1922年、レーニンはクレムリンでレオン・テルミンの手を借りて「陰極管による音楽装置」を演奏した。当時の共産党による電子技術の支援をものがたるエピソードだ。本書によれば、十月革命を経た1920年代のロシアには科学的思考を重んじる芸術文化が生まれ、そのなかでさまざまな音の実験も行われた。この文化は同時期のグラフィックによく見られたスパークの形から「Z世代」と呼ばれている。Z世代の音の実験にはテルミンを始め、音楽の専門教育を受けていない学者、発明家、画家、詩人、俳優などが数多く関わった。
アンドレイ・スミルノフによる本書は、電子回路やラジオの発達に強い影響を受けたロシアのZ世代による音の実験、電子音楽のあらましを描いている。テルミンやジガ・ヴェルトフ、《サイレン交響曲》(1922)のアルセニイ・アヴラアモフ、光学式オルガン「バリオフォン」のエフゲニー・ショルポ、音響装置の発明家でもあった俳優のウラディミール・ポポフら、多彩な人物の活動や交流が物語の中心にある。それとともに、Z世代の作家たちを育んだプロレタリア文化協会プロレトクリト、マレーヴィッチが所長を務めた国立芸術文化研究所といった組織の働きを論じるというかたちで、社会状況との関わりも考察されている。初出版、初英訳の内容が少なくないというが、多数収録された装置類の図版だけを見ても楽しめる。
本書があつかう内容の一部は近年少しずつ紹介されてきたものだ。例えば、ダグラス・カーンとグレゴリー・ホワイトヘッドによる1992年のアンソロジー、『無線想像力:音、ラジオ、前衛』にはアヴラアモフの文章とメル・ゴードンによる広範な解説が掲載されていた。日本でも竹内正実『テルミン――エーテル音楽と20世紀ロシアを生きた男』(岳陽社、2000)が時代背景を交えながらテルミンの生涯を書いている。こうした資料なかでも一際貴重なのが、2008年にRēRが発表した「バクー:サイレン交響曲」だ。この2枚組CDには表題曲の再演とヴェルトフの映画《熱狂:ドンバス交響曲》(1930)の音源を中心にZ世代の作品が多数収録され、詳細なブックレットも付いている。
アレックス・ロスの『20世紀を語る音楽』(みすず書房、2010)は、ショスタコーヴィチとプロコフィエフを中心に、20世紀前半のロシアの音楽を取り巻く状況を描いている。そのなかで、ごく短くではあるがZ世代の政治的背景も説明されている。実利主義者レーニンは前衛芸術をどちらかと言えば嫌っていたが、不干渉、黙認という態度を取っていた。彼の政権下で文化に携わった教育人民委員のアナトーリー・ルナチャルスキーは哲学を学んだ人物で、社会の革命は芸術の革命とともにあると信じ、前衛芸術を支援した。さらに先端技術を重んじる共産党の姿勢が加わり、反伝統文化、反ブルジョワ文化をかかげるアナーキーで物質主義の芸術が生まれる環境がととのった。しかし、レーニンとは異なり積極的に芸術に干渉するスターリンが29年に政権につくと、Z世代は急速に力を失ってしまう。
著者スミルノフは「運動の芸術」、「革命的音響機械」、「音対イメージ」、「図形音響」といったジャンルごとの章を中心に本書を構成している。ここではこれらを順にふれていくより、ロスが「当時もっとも過激な音を生み出して」いたと評した、Z世代による音の実践のいくつかを個別に紹介してみたい。
映画監督として《カメラを持った男》(1929)などの作品で知られるヴェルトフは映画を手がけるようになる前に、自己流の聴覚の探求を試み、音響詩のような創作を行なっていた。1912年、16才の彼は音楽学校に入学し、単語をリズミカルな順序に並べて暗記する記憶術に関心をもった。兵役を終え、二月革命以前に唯一ユダヤ人を受けいれていたペトログラード神経学研究所に入所すると、聴覚に対する興味はさらに深まった。彼は休暇を利用して、自ら「聴覚実験室」と名づけた活動を始める。それは例えば、製材所が発するあらゆる騒音をあたかも視覚障害者が聴くように聴き、文字にしていくという創作だった。ヴェルトフは文字にならないメロディやモティーフを表現するための記号も検討した。しかし最終的に、音を記録して分析するための手段がいまだ欠けていると悟ったという。
ヴェルトフは二月革命後にモスクワ大学に入学するが、すぐに退学し、映画委員会に事務員として雇われた。そして、次第に映画雑誌の編集にかかわり、映画制作も手がけるようになる。撮影装置は彼が求めていた録音装置に代わるものだったのだ。
ヴェルトフが聴覚の探求を再開したきっかけのひとつは、アレクサンドル・ショーリンが開発した携帯型サウンド・オン・フィルム装置だった。ヴェルトフはこの装置を使って工場、港、駅、街路などでの撮影と録音を始めた。そして、現地録音、音声編集を駆使した映画《熱狂:ドンバス交響曲》を1930年に発表することになる。ドイツでヴァルター・ルットマンが、ミュジック・コンクレートの先駆けとして知られる《週末》を発表したのとちょうど同じ年だ。ヴェルトフの作品はロンドンでの上映会の後、チャップリンに「私が聞いたなかでもっとも爽快な交響曲のひとつだと思う」と評された。
Z世代による音の実験は際立った個人ばかりでなく、非専門家の集団によっても担われた。ソロモン・ニクリーチンらの投影劇場や、ニコライ・フォレッゲルの劇団マストフォル、セルゲイ・エイゼンシュテインが率いたプロレトクリト第一労働者劇場などは、イタリア未来派とは異なる思想のもとで舞台に独創的な騒音発生装置を取りいれ、騒音音楽を奏でていた。彼らの活動に衝撃を受けたアマチュアたちが1920年代にはさまざまな自作の騒音装置を発明し、特許を取得していった。スミルノフによれば、こうした実践はプロレトクリトの支援を受けたDIY活動であり、都市民俗活動に近いものだった。熱心な若者たちは「シューモヴィクス」と呼ばれ、彼らの創作は次第に大衆運動へと成長していった。アヴラアモフらによる具体音を取りいれた作曲もこのような運動のなかで生まれたものだった。
シューモヴィクは次第に劇場だけでなくラジオ局や映画制作所にも進出し、騒音音楽だけでなく、いわゆる効果音の装置も手がけるようになる。モスクワ芸術座の俳優ウラディミール・ポポフはそうしたシューモヴィクの動向を代表する人物のひとりだ。1920年代、舞台用騒音装置の制作は彼の一番の趣味だったが、次第に彼はサウンド・デザインの専門家となり、モスクワ芸術座で教鞭をとるまでになった。本書にはポポフが考案した効果音装置の図面や、バッタの音や遠くの汽笛を再現する装置の写真も収められている。
Z世代による騒音発生装置の開発、映像と音の組み合わせの探求、図形を用いた音のコントロールといったさまざまな音の実験を、スミルノフはしばしば「サウンド・アート」という言葉で語っている。しかも、彼は本文の冒頭でこの言葉にわざわざ「音楽、音響学、多様な実験的メディアの交差点における新しい美的傾向」という脚注をつけた。これまでは音楽、美術、演劇、映画といったジャンルごとに論じられてきた実践が、サウンド・アートという視点を通じて相互に結びつき、ひとまとまりのネットワークとして本書のなかに浮かびあがっている。スミルノフによるサウンド・アートという言葉の使いかたは、いわばヒューリスティック(発見的)なのだ。