ジャネット・クレイナック『反復されたナウマン』
Janet Kraynak, Nauman Reiterated
『アルテス』2014年9月号、127-131頁
美術作品を聞くとはどういうことか
ブルース・ナウマンの《デイズ》(2009)は、空白のキャンバスに似た14枚のフラット・パネル・スピーカーを通路状に並べた作品だ。スピーカーからさまざまな言語で曜日の名前を読みあげる声が聞こえる。白い板からなる廊下、再生される声、包囲する音、反復とずれ、こうした要素の組み合わせは60年代からナウマンのトレードマークだった。彼は自己を反復する作家である。自身のヴィデオ・アート作品の音だけを、テート・モダンのタービン・ホールに響かせた《ロウ・マテリアルズ》(2004)もそうだった。
2003年にナウマンの文章とインタビューを集めた本を出版したジャネット・クレイナックによる『反復されたナウマン』は、60年代から70年代のナウマンの作品を、当時のメディア・テクノロジーとの関連を中心に論じている。注目したいのは「世界が違って聞こえる:音と、記録の新しい文化について」と題された第3章で、彼女はこのなかでその時期のナウマンの音と関わる作品を概観していく。ナウマンはサウンド・アートの代表的作家のひとりと呼んでいいだろうが、ヴィデオやネオン・サインを使った作品の方がよく知られている。だが、クレイナックはこの第3章を本書の中心とみなす。加えて、90年代以降に大きく展開した聴覚文化研究、サウンド・スタディーズを幅広く参照している点も重要である。
なぜ、クレイナックはナウマンの初期作品と音の関係に特に注目するのか。さらに同章の冒頭で、彼女は「美術作品を聞くとはどういうことか」という問いを立てている。この問いはクレイナックが美術批評とサウンド・スタディーズをいかに結びつけるのかに関わっている。彼女はこの問いにどう答えるのか。
クレイナックは「世界が違って聞こえる」の議論を大きく二つに分けながら、実際には両者が絡みあっていると説明する。ひとつはナウマンがケージ以後の実験音楽、特にミニマル・ミュージックの作家たちから受けた影響についての議論、もうひとつはこうした作家たちと60年代の音響メディアやポピュラー音楽の動向の関係についての議論だ。
ナウマンとミニマル・ミュージックの作家たち、なかでもスティーヴ・ライヒとの結びつきを象徴するものとして、クレイナックは1969年の「アンチ・イリュージョン:手続き/素材」展をあげる。同展はプロセスを重視する作家たちがジャンルを越えて結集したことで知られる記念碑的な展覧会である。展示とともに開催されたイベントでは、最終日にライヒの《振り子の音楽》(1968)が上演された。彼が「聞こえる彫刻」と呼んだこの作品は、プロセス・アートのモデルのひとつとして高く評価された。そして、ナウマンは同作品にリチャード・セラ、ジェイムズ・テニー、マイケル・スノウとともに振り子の振り手として参加した。彼はミニマル・ミュージックの作家たちと日常的な交流があり、ライヒがマイクをスイングさせることを思いついた機会にも居合わせていたという。
ナウマン自身が同展に出品したのは、《パフォーマンス・コリドー》という移動壁で廊下をつくる作品である。この作品は後に彼が制作するたくさんの廊下の原型になった。クレイナックによれば、同作品はケージが《4分33秒》などで探求した「タイム・ブラケット」という手法の造形版であり、時間ではなく空間を限定することで鑑賞者の経験に働きかける。また、同展のイベントではナウマンにはめずらしい「ライブ」作品《パフォーマンス・アリーナ》も上演された。彼とジュディ・ナウマン、メレディス・モンクによるこのパフォーマンスは、ヴィデオ作品《バウンシング・イン・ザ・コーナー》(1968)のライブ版で、壁を背に立ち、後ろに倒れこんで壁に背中をはずませる動作をくり返すというものだ。クレイナックはダン・グラハムの言葉を引用して、この作品をライヒが考案した「フェイジング」という手法と結びつける。ナウマンによるフェイジングの応用は他にもあり、《リップ・シンク》(1969)は音と映像のフェイジングである。
このようにクレイナックはナウマンとミニマル・ミュージックを関係づけながら、さらにその背景として音響メディアとポピュラー音楽の動向を見ていく。まず参照されるのはマイケル・シャナンやデヴィッド・モートンの音響メディア史である。クレイナックは、60年代以降のポピュラー音楽に変革を起こしたテクノロジーのひとつとして、マルチトラック・ミキシングをあげる。音楽家はこの技術を通じて彫刻家のように音を編集できるようになり、音楽業界にも聴取のあり方にもさまざまな変化がもたらされた。なかでもジャック・アタリを参照しながらクレイナックが強調したのは、再生された音と現実の音のヒエラルキーの転倒である。録音編集技術の発展により、再生される音こそが真実でライブはその付属物という認識が生まれた。レコードが上演の地位を奪い、音楽はより物質化して、造形作品により近づいた。そして、反復されるものに価値が置かれるようになった。
クレイナックは録音を、それまでに造形作家が利用してきた複製技術のなかでもひときわ、現実の認識を変えたものだったと考える。だから、ナウマンの初期作品のなかでも音を使うものに注目したのだ。彼の《6つのサウンド・プロブレム》(1969)は、磁気テープをギャラリーの空間に長く伸ばしたオープン・リールのデッキで、自身のヴィデオ作品の音だけを再生する。先の《ロウ・マテリアルズ》の原型である。ナウマンは自身の過去の作品を、そこに隠れていた内容を強調することで、新たなアイデンティティをあたえて反復する。
クレイナックが指摘した音響テクノロジーの影響をもうひとつあげておこう。ライヒとナウマンはフェイジングによる作品が独特な身体感覚を生みだすと語った。例えば、ライヒは音が身体や空間の内部を動きまわるように感じたという。デヴィッド・シュワルツはミニマル・ミュージックのような構成の音が、聴取者の身体を包みこみ、身体とその外部の境界が揺らぐかのような幻想をもたらすと論じている。クレイナックは彼の議論を参照しながら、ライヒやナウマンがこうした音による包囲に注目したことを、60年代に普及したステレオ音響やサイケ・ロックと関連づける。さらに、彼女はナウマンがこの包囲感覚を《斜めの音の壁/聴覚の壁》(1970)など、吸音壁による作品群を通じて探求していったと考える。
60年代に普及した音響メディア、特に録音編集技術は作家に一時的な解放をもたらしたが、それは長続きしなかった、とクレイナックは指摘する。新しいテクノロジーはすぐさまマスカルチャーによる管理の道具になった。アタリが言うとおり、記録は力である。そしてクレイナックは、ナウマンのサウンド・アートはテクノロジーによる解放を目指すものではなく、むしろ管理と向きあうものであると主張する。彼の作品はたしかに、監視、調整の経験が一貫してテーマになっている。さらに、クレイナックは「美術作品を聞くこと」自体が、沈黙し、観照しようとする鑑賞者の自律が破られ、管理のもとに連れだされる経験なのだと考える。展示空間に音を持ちこむことは、否応なく鑑賞者を力の相互作用の場に導くことになるのだと。
ここまで、クレイナックがなぜナウマンの音を使う作品に注目したのか、それをどう批評したのかを見てきた。現実とその複製のヒエラルキーの逆転や、人間を包囲するものといったナウマンの作品の中心テーマは、たしかにこの時代の録音文化と深い関係にある。個々の作品解釈や、音響メディア一般との関係の考察、管理社会との対峙といった、ひとつひとつの論点自体は特に目新しくないかもしれない。しかし、本書の意義はサウンド・スタディーズの蓄積をふまえて、メディア史の流れと批評の間により緻密なネットワークを作りだしたことにあるだろう。ナウマンや60年代を離れてネットワークを拡張していくことで、この意義はさらにはっきり見えてくるはずだ。