デヴィッド・ノヴァク『ジャパノイズ──流通の縁にある音楽』
David Novak, Japanoise: Music at the Edge of Circulation
『アルテス』2015年1月号、66-70頁
フィードバック・マシーンとしてのノイズ文化
名状しがたい不定形の音、あらゆる価値に対するアンチの態度、こういった抽象的な概念から離れて、いかにノイズ・ミュージックを語るか。デヴィッド・ノヴァクによる本書は、この問題にポピュラー音楽学の方法で答え、ノイズを一般的な音楽と比較しながら、その要素を考えていくための情報と視点を提供する。本書が前面に掲げるキーワードは「サーキュレーション(流通・循環)」であり、ノイズを「ノイズ自体」ではなく、そこに関わる実践全体から理解しようとする。日本と海外、関東と関西、レコード・ショップとライブハウスなどをめぐる実践の循環、そこに生じるずれを詳細に記述していくことが、本書前半の主題である。そして、このサーキュレーションに生じる、「フィードバック」という現象が本書のもうひとつの、おそらくより重要なキーワードだろう。ノヴァクはこの現象に注目することでノイズ文化の歴史や地理と、フィードバック・ノイズの轟音や正のフィードバックが生みだすカオスを重ねあわせて理解しようとする。
日本のノイズ・シーンについてはほとんどふれていない『ノイズ・ウォー ノイズ・ミュージックとその展開』(青弓社、1992)のあとがきに、秋田昌美は「ノイズ・ミュージック」という用語は日本の造語であると書いた。この違和感を残す言葉が、ノヴァクの本書を読むと、ひとつの創造的な言葉として見えてくる。ポール・へガティによる、池田亮司やSachiko Mまで参照されるジャパニーズ・ノイズ・ミュージックの考察(『ノイズ/ミュージック 歴史・方法・思想 ルッソロからゼロ年代まで』(みすず書房、1994)所収)も、この音楽のアイデンティティにまつわる「誤読」について論じていた。ヘガティがごく観念的に「弱くマイナーな雑種性」と呼ぶような日本のノイズ・ミュージックの性質が形成された過程を、ノヴァクは特定の時代、場所、コミュニティをめぐる民族誌として描く。
本書のタイトルである「ジャパノイズ」という言葉は、秋田の言葉と同じような違和感をまとっている。レッドブル・ミュージック・アカデミーのインタビューで、ノヴァクはこの用語が生まれた背景である、日本とアメリカの認識の差や、両者を結ぶ流通について簡潔に説明していた(「『JAPANOISE』著者が語るノイズ、フクシマ」)[http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/interview-david-novak]。日本のノイズに対するアメリカ人の認識には、企業社会の個性のない構成員という、80年代に作られた日本人観の影響があるという。「そして日本に対してこのようなイメージを持っている人がノイズを聴くと、日本人の意識下のカタルシスなのではないかと捉えるのです」。彼によれば、日本の作家はこうした偏見を感じとってか、「ジャパノイズ」はばかりか「ノイズ」という呼称すら避けようとする。こうした蔑称としてのジャンル名称という現象はあらゆる表現領域に見られるものだろう。だが、ノイズ・ミュージックの流通全体にとってこの偏見はひとつの側面でしかなく、創造的な循環を生みだす一要因ですらあると本書は主張する。実際、90年代の日本のノイズは海外の評価を受けて、「逆輸入」というかたちでさらに作家や聞き手を増やし、この影響がまた海外に波及していったという経緯がある。
ノヴァクは、ノイズ・ミュージックをめぐる文化のさまざまな局面にこうした循環を見いだしていく。例えば、作家の間、ライブハウスとレコード・ショップの間、地方の間などに、関心と誤解にもとづく循環が生じる。そして、彼はこの関係に正のフィードバック・ループが起きていると考える。「ノイジシャン」はよく、複数のエフェクターをつなぎ合わせてこのフィードバックを生みだすシステムを作りだす。パフォーマンスはここから生じる音の暴走に乗り、限界まで達して逸れたり、突然の休止に遮られたりする。入力の増加が出力の低下につながるネガティブ・フィードバックがシステムに安定をもたらすのに対して、正のフィードバックはシステムを予測のつかない振る舞いに導く。ノヴァクはこの現象を比喩として使い、ノイズ文化の具体的事象を論じていく。フィードバックを文化論に適用すること自体は、サイバネティクスの応用やフランス構造主義にも見られる古典的な議論である(ノヴァクはアダム・スミスの自己調整的市場の理論を先駆けとしてあげている)。しかし、ノイズのパフォーマンスと文化を貫く概念として、フィードバック以上にふさわしいものもないように思える。
ノヴァクがこのフィードバックの比喩をノイズの政治性と結びつけていく議論は、現在の日本の状況とリンクしていて考えさせられる。彼は東日本大震災をめぐる大友良英の講演を引用する[http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html]。大友は、福島第一原発の状態を「ビャーッてずっと鳴り続けている、スイッチを切れないフィードバックマシーンのような感じ」と表現し、冗談めかして「ゲンパツ君1号」という名前の、止められないノイズ・マシーンを作りたいと語った。ノヴァクは日本のノイズ文化が反テクノカルチャーという政治的姿勢を共有していると指摘する。しかし、この姿勢は技術をただ捨ててしまうのではなく、大友が語るように、止めようがないかにも見える技術の反復運動をその暴走も含めて受容し、翻弄されることもあれば、制御することもあるというかたちをとるのだという。ノヴァクはこうした発想を映画やアニメーションなど、80年代以降のいくつかの日本文化にまたがるものとして論じる。
「カセット文化の未来」と題された最終章も興味深かった。ノイズ・ミュージックはカセット・テープとの長く深い結びつきがあり、ノヴァクはその経緯にこの音楽の戦略や状況の変化を見ようとする。80年代の国際的なノイズの流通はその多くが作家どうしの、郵便によるカセットの交換を通じて拡大した。このころのカセットの役割はちょうど2000年代のMP3のように著作権を危機に晒し、草の根のネットワークを育み、自主制作精神を養うものだった。しかし、2000年代にこの役割がMP3に代わられると、むしろカセットはネットに求められない要素を担うようになる。例えば、物としての魅力や不合理性、ライブ会場での現実の交流といった要素である。実際、現在でも新作のノイズ・ミュージックが次々とカセットでリリースされている。この議論は日本のノイズに限られたものではないが、カセットを流通における一種のノイズとして見ようとする視点が面白い。
ノヴァクは『ニュー・ジャズ・スタンダーズ――ジャズ研究の新たな領域へ――』(アルテスパブリッシング、2010)に収められた論文で、日本の〈音響〉について、正確にはオフサイトをめぐる即興演奏について考察している。焦点はここでもポストコロニアルな文化的状況における日本と海外の関係に合わされ、フィードバックではなく「無音」がキーワードである。彼によれば、〈音響〉は当の即興演奏家の思いを外れるかたちで、新しいものであり伝統的なものでもあり、また普遍的なものでありローカルなものでもあるという両極の評価に引き裂かれながら海外で受容され、賛否を呼んだ。
ノヴァクのふたつの研究は比較的小規模のインディペンデントな文化を対象としている。そうした特殊な関心を共有するように見える集団でも、差異や誤解が影響力をもち、それがときには新たな展開の原動力になるという彼の発想が特に印象に残った。