ブランドン・ラベル『口の用語辞典──声と口唇幻想の詩学と政治学』
Brandon LaBelle, Lexicon of the Mouth: Poetics and Politics of Voice and the Oral Imaginary
『アルテス』2015年3月号、80-84頁
口の技法
作曲家ゲオルク・ヌスバウマーによる《ビッグ・レッド・アリアス》(2004)は、声によらない口のパフォーマンスだ。まず歌手たちが赤いガムをゆっくり噛む。指揮者がその背後を歩き、肝臓、腎臓などと内蔵の名前をささやいていく。歌手たちは口のなかでガムを内臓のかたちにし、最後に吐きだす。ブランドン・ラベルの『口の用語辞典:声と口唇幻想の詩学と政治学』には吐かれたガムの写真が載っている。白黒画像だが、生々しく濡れたガムの細部はたしかに内蔵のひだや血管のように見えなくもない。ラベルはこのパフォーマンスを噛むという動作の陰画と評している。食物を吸収するための咀嚼によって小さな彫刻が作りだされた。ヌスバウマーは口の日常的な動作を組み合わせ、発声とは別のかたちの口による創造活動を示してみせた。
ラベルの本書は、噛む、吐くといった口のさまざまな動作を並べあげ、それぞれと結びつく文化や想像力、作品を論じていく。声について調べていくうちに、口を無視できなくなったと彼は書いている。本書の魅力を伝えるには、目次に並んだ用語をあげていくのが一番いいかもしれない。げっぷ、窒息、せき、吐瀉、泣く、叫ぶ、歌う、たわごと、うなる、ため息、あくび、キス、舐める、吸う、笑う、舌足らず、どもる、誓う、口笛……。
本書はサウンド・アートの作家・理論家として知られるラベルの5冊目の著作になる。2006年に出版された彼の『バックグラウンド・ノイズ:サウンド・アートの展望』は、アラン・リクト『サウンド・アート:音楽の向こう側、耳と目の間』(2010、フィルムアート社)と並んでサウンド・アートの概説書として注目を集めた。ラベルによれば同書と、これに続く『聴覚のテリトリー:音の文化と日常生活』(2010)、そして本書は音をめぐる実践を論じた三部作だという。そこで、まず彼のサウンド・アート批評の基本的なスタンスを過去の文章から見ていき、その上で本書の特色について考えてみよう。
ラベルの発想の方向性は初期のころからかなり一貫している。彼はかつて実験音楽家が主張したような音そのものへと向かう姿勢を批判し、音をその外部と結びつけ、音を多様なものが交流する場としてとらえようとする。『偶然の振れ幅――その出来事の地平』(川崎市市民ミュージアム、2001)に収録された論考「フィールドレコーディング、或いは拡張された場において見出された音」では、ボイスの社会彫刻やシチュアシオニストの転用といった概念を参照しながら彼はこう書いている。「音そのものは、常にそれを越えてすぐのところにあるコンテクストと重なる「場」における身体の力や衝突に決定されるため、それは決して存在しないのだ」。「音それ自身もまた条件付けられ、社会化され政治化された出来事として起こる」。
そして、『バックグラウンド・ノイズ』の序論「聴覚をめぐる諸関係」はこのように始まる。「音は本来的に、また無視しえないほどに関係的である」。「音から関係をめぐるレッスンを導きだしながら、芸術の媒体としての音がいかに発展してきたのかを歴史的に追いかけること、これが私のねらいだった」。同書は実験音楽史をテーマごとに描き直すような構成をとっており、そのなかでは、ニコラ・ブリオの「関係性の美学」も言及される。本書で示された関係性というテーマを、特に現実の具体的な場所や時間と関連づけて展開させたのが『聴覚のテリトリー』ということになるだろう。『口の用語辞典』でもこうした姿勢は変わらない。ブリオではなくエドゥアール・グリッサンの「関係の詩学」をあげて、ラベルは次のように述べている。「口は身体を主体として、諸関係のネットワークのなかにある主体として成り立たせ、維持する役割を果たす」。
それでは、ラベルはなぜ声ではなく口に焦点を合わせたのか。本書に先立って彼は「生のオラリティー:音響詩と生きた身体」(2010)という論考で声について考察した。彼はここで、音響詩人の声が電子機器を通過することで、起源としての身体に回収されることなく、広範な関係性に開かれていったと論じている。声というきわめて関係的な現象と比べると、口はより個人に属しているように見える。もちろん、彼の関心はまず声にあったし、本書でも声は議論の中心にある。だが、ヌスバウマーの《ビッグ・レッド・アリアス》のように、ラベルが取りあげる作品は声と直接は関わらないものも少なくない。例えば、身体に歯型をつけていくヴィト・アコンチの《トレードマークス》(1970)、男女が嘔吐をくり返すマーティン・クリードの《作品番号610(病んだ映画)》(2006)、笑っているとも泣き叫んでいるともつかない女性が無音で映しだされるサム・テイラー=ジョンソンの《ヒステリー》(1997)などがそうだ。これらの作品を論じながら、ラベルは口という器官がいかに社会と交わっているか、つまり口がいかに関係的かを訴えていく。
ラベルが口の関係性を考えるためにまず参照するのは、ジョン・レーヴァーとウィリアム・ラボフの言語学研究である。彼らは、言語の習得が何よりも口を中心とする身体部位のコンフィギュレーションの問題であり、身体とからみ合う社会的慣習の問題であることを証明した。また、ラベルはドナルド・メルツァーとルネ・スピッツの精神分析理論から、口とは身体の外部と内部が相互作用するための軸であるという主張を援用する。メルツァーはこのことを説明するために、口を舞台に見立てる「口の劇場」という概念を提案した。他にもラベルは食事の振る舞いと社会的地位の関係をめぐるジョン・バージャーの研究などを引きながら、口がいかに優れて関係的な器官であるかを語っていく。
個人と社会、主体と客体を結びつける蝶番としての口を論じるために、ラベル自身が採用したのは「マウシング」という用語である。口という器官は固有の機能をもつというより、さまざまな振る舞い、つまり「マウシング」に開かれている。ただし、この振る舞いは物理的制約だけでなく社会的慣習の制約も受けているため、通常は一定の範囲内に収まる。だからこそ、口は多様なものの交流の場としての役割を果たすこともできる。ラベルのこうした議論は、彼が言及こそしていないものの、マルセル・モースによる「身体の技法」の研究を思わせる。思うに、ラベルの本書の主題は多岐にわたる口の技法なのだ。この用語辞典が口の部位や形状ではなく動きに注目するのは、こうした理由からだろう。噛む、吐く、うなる、吸うなどの口の動作を彼は「マウシングのモダリティ」と呼んでいる。
作家であり理論家でもある書き手にはよくあることだろうが、ラベルの議論の進め方は、最初にひとつの問いを示し、それを調査と推論を重ねながら論証するというものではないことが多い。実践から得られた認識をもとに、多くの理論や作品によってそれを補強しつつ、事象から事象へと次々に移っていく。こうしたスタイルには用語辞典という本書の題名がふさわしいと感じる。ラベルの基本的な姿勢さえ押さえれば、あとは節題や索引を手がかりに、気になったところから読むことができる。
サイト[http://www.brandonlabelle.net/]を見るかぎり、彼は現在ノルウェーのベルゲン美術大学でサウンド・アートやサウンド・スタディーを教えながら、多数のプロジェクト、リサーチを展開しているようだ。声、言語、テキストをめぐる彼自身の近年の作品には、耳の不自由な人がケージの「無についてのレクチャー」を朗読する《無についてのレクチャー》(2009, CD 2011)がある。