ティモシー・D・テイラー『資本主義の音──広告、音楽、文化の征服』
Timothy D. Taylor, The Sound of Capitalism: Advertising, Music, the Conquest of Culture
『アルテス』2015年5月号、104-108頁
消費者をつくるための音楽
コマーシャルで流れる音楽は、アメリカでは1920年代よりラジオにおいて発展し、30年代には歌詞で商品をほめる「シンギング・コマーシャル」というスタイルが確立された。1944年、「チキータ・バナナ」のコマーシャルの陽気なジングルが大流行すると、多くの有名歌手にカバーされ、レコードもつくられた。『資本主義の音――広告、音楽、文化の征服』の著者ティモシー・D・テイラーによれば、テレビが普及した50年代、広告で流れる音楽にも大きな変化が生じた。それまでの音楽はどれも楽しげで、聴取者の消費欲をあおるものだったのに、テレビ・コマーシャルの音楽はずっと情緒的で、視聴者の繊細な感情に寄り添うようになった。テイラーはこの変化をメディアの性質の違いから説明する。視覚情報のないラジオでは音楽によって商品の魅力を強調する必要があった。一方、商品を視覚的にアピールできるテレビでは、消費者の感情を精緻にコントロールすることが音楽の役割として重視されるようになった。さらに彼はこう主張する。こうした変化を、たんなるメディアの転換の結果ではなく、広告産業や資本主義がだんだんと移り変わっていった長い過程の一幕として考えるべきだ。そして、この過程でたえず追求されてきたのは、いかにして消費者を生産するかという課題だったと。
『資本主義の音』は、テイラーによれば、広告音楽の歴史をめぐる初めての学術書である(とはいえ、アンソロジーなら近年日本でも小川博司・小田原敏・粟谷佳司・小泉恭子・葉口英子・増田聡『メディア時代の広告と音楽――変容するCMと音楽化社会』[新曜社、2005]などがある)。本書で扱われる広告音楽には、コマーシャルのために制作された楽曲も、コマーシャルで使われた既存の楽曲も含まれる。テイラーは本書がアドルノやジャック・アタリの議論を受けついでいることを認めるが、これらが実証データを欠くことに不満を述べる。本書の魅力はまずこのデータ、つまりラジオからインターネットに至るまでの広告音楽の、たくさんの楽曲、音楽家、統計、エピソードについての記述である。取りあげられた歴史的楽曲のいくつかは動画共有サイトなどで聞くことができる。興味深いエピソードの一例をあげると、初期のラジオ・コマーシャルではクラシックとジャズのどちらがふさわしいかという論争があったという。スポンサー側は刺激的なジャズを好んだが、広告代理店側は自分たちの品位を高めるためにもクラシックを使いたがった。ジャンルの比較は後にマーケティング手法の発達と結びついて、70年代には詳細な図表になっていく。テイラーが描く広告音楽史はスポンサー、代理店、音楽家、消費者などの異なる立場の集団と、さまざまな音楽ジャンルが絡み合いながら展開する。
『資本主義の音』は個人の社会的実践としての消費をめぐるものではない、広告音楽を「読む」ことにはあまり関心がない、とテイラーは書いている。彼が目を向けるのはますます融合していく音楽産業と広告産業の関係であり、すべての音楽が広告音楽でありうるという現状だ。消費者という役割をいかに生産するか、この課題はラジオ・コマーシャルが登場したころからすでに広告産業の主な関心事であり、現在もそうであるとテイラーは主張する。広告代理店は広告を通じて商品やサービスをアピールするだけでなく、視聴者がそれらを熱心に消費するような文化をつくろうとする。音楽はそのために重要な働きを担ってきた。テイラーによれば、消費者の生産は資本主義の基礎であり、社会状況の変化、例えば人口動態の変化とともに方法を変える。広告音楽の歴史もこうした変化に沿っていく。
本書副題の「文化の征服」はトマス・フランクの『クールの征服』(1997)にもとづいている。フランクは同書でこう語った。「六〇年代に起こったのは、ヒップ(あるいはクール)が、資本主義が自分自身を理解し、大衆に対して自分を説明する際の、中心概念になったことである」(バウンテン、ロビンズ『クール・ルールズ――クールの文化誌[鈴木晶訳、研究社、2003]より孫引き)。若者文化が伝統文化に取って代わるなかで、クールな価値観を表現することは消費者を生産するための重要な方法のひとつになった。さらにテイラーはこう論じる。レーガン政権時代にあらわれた消費文化以降、ピエール・ブルデューが「新興プチブル」と呼んだ社会集団によって、あらゆる文化を用いて消費者の生産が行われるようになったと。新興プチブルとは人に商品を勧めたりイメージをつくりだしたりする職業に就く人々のことだ(ブルデュー『ディスタンクシオン――社会的判断力批判』石井洋二郎訳、藤原書店、1990)。テイラーの広告音楽論の理論的な意義はこのあたりにありそうだ。彼は広告音楽の変化を資本主義そのものの変化としてとらえる。
ここでテイラーが物語る、広告−音楽産業がおよそ1世紀にわたって展開した戦略の変遷をかけ足で見てみよう。そうして彼の議論を大まかにとらえても、本書に集められた事例の豊かさが失われることはないだろう。テイラーはアメリカの広告音楽の歴史には3つの大きな波が訪れたと考える。
20年代、ラジオ・コマーシャルと音楽が結びついた直後から、音楽が商品に「人格」のようなものを付け足し、聴取者の「善意(グッド・ウィル)」を引きだす効果をあげることが期待されていたという。しかし、大恐慌後の30年代以降はそうした穏やかな戦略ではなく、「ハード・セル」と呼ばれる直接的なアピールが主流になる。そのなかで広告音楽の陽気なスタイルが定まり、音楽産業と広告産業が融合していく。第2の波が訪れたのは、冒頭に書いたとおり、テレビが普及した50年代だった。消費者をいかに生産するかという方法自体は時代やメディアとともに変わったが、2つの産業の融合は後戻りせずに進んだ。
人口動態の変化にともない、70年代までには広告産業が「若者」というターゲットを確立し、広告音楽からたくさんのヒットを生まれるようになる。その結果、広告音楽とそうでない音楽の境界はますますあいまいになった。80年代初めは音楽つきコマーシャルが半分ほどだったが、MTVの流行とともに、80年代半ばになるとほとんどのコマーシャルが音楽つきになる。この時代の変化がテイラーの語る第3の波にあたる。広告−音楽産業はマーケティングを通じてより特定された集団にアプローチするようになっていく。若者消費文化の担い手だったベビーブーマーが企業幹部になると、彼らはトレンドを探すのではなく、トレンドをつくる側に回ろうとした。例えば、あまり知られていない音楽、オルタナティブ・ミュージックなどを取りあげて、自分たちが若者文化の権威になり、文化を征服しようとする。テイラーは、80年代半ばに訪れたこうした変化をデジタル・テクノロジーが助長したことも論じている。
テイラーの以前の著作には、新しい音響テクノロジーが生みだす新しい音をめぐる『ストレンジ・サウンズ――音楽、テクノロジー、文化』(2001)がある。このなかで彼は、音楽とテクノロジーの結びつきを同時代の文化全体のなかに位置づけるためのロジックを模索していた。そして、ラトゥールやギデンズを参照しながら、テクノロジーに対する社会の不安と期待がテクノロジーを利用する音楽にいかにあらわれるかを考察した。こうしたアプローチによって彼はピエール・アンリの特異性やゴア・トランスの多面性、ムスリムガウゼの戦略など、さまざまなジャンルの音楽をならべて論じることができた。
『ストレンジ・サウンズ』と『資本主義の音』は対象こそかなり異なるが、アプローチには共通するところがありそうだ。それは、ある文化のなかに起こったひとつの動揺をめぐって、音楽がそれを助長したり、それから影響を受けたりしながら、再配置される過程を追っていくというものである。『ストレンジ・サウンズ』では新しいテクノロジーの出現が、『資本主義の音』では資本主義に生じた変化がこの動揺に当たるだろう。広告音楽の展開はこの動揺のたんなる帰結ではなく、むしろ動揺を構成するものだ。