『アルテス』洋書レビュー 15.

アンドリュー・シャートマン『近藤浩治 スーパーマリオブラザーズ・サウンドトラック』
Andrew Schartmann, Koji Kondo’s Supere Mario Bros. Soundtrack

『アルテス』2015年7月号、48-52頁

schartmann

 
家庭にやってきたゲーム・サウンドトラック

本書は150ページほどの小型本で音楽アルバム1枚を論じる「33 1/3」シリーズに、任天堂の近藤浩治が作曲した 「スーパーマリオブラザーズ」(1985)のサウンドトラックが取りあげられた。シリーズは100冊を超え、マニアックな名盤も多く取りあげられているが、ゲーム・ソフトをアルバムに見立てたのは本書が初めてだという。とはいえ、ヴィデオ・ゲームのサウンドトラック研究はすでに英語圏で著作や論文がいくつも出版されているし、日本でも岩崎祐之助がファミコンからスマートフォンまでをたどる『ゲーム音楽史――スーパーマリオとドラクエを始点とするゲーム・ミュージックの歴史』(リットー・ミュージック、2014)を書いている。そんななかで、短くまとまった本書はゲーム・サウンドトラック研究の入門書として読めそうだ。「スーパーマリオ」なら実物なしで音を思い浮かべられる人は多いだろう。

音楽書のシリーズだからか、シャートマンはまずヴィデオ・ゲームの歴史や8ビット音源などの文脈を丁寧に説明し、必要があれば五線譜を使って近藤の作曲法を解説していく。彼はブラームスやベートーヴェンに関する論文を発表している音楽学者であり、本書に先立って著作『マエストロ・マリオ』(2013)を発表している。

近藤の独創性を音楽ファンに伝えるために、シャートマンはゲーム・サウンドトラックの歴史における「スーパーマリオ」の位置を際立たせようとした。これが結果的に、彼の議論にゲーム・サウンドトラック研究を超えた意義をもたらしている。このことは本書の論旨を紹介してからあらためて説明しよう。

 
シャートマンは本書第1章を意外にも、1983年に起きたいわゆる「アタリ・ショック」、北米家庭用ゲーム市場の崩壊を説明することからはじめる。この事件を最初にもってきた理由はおそらく、アーケードから家庭へとゲーム市場が移りかわっていくときの紆余曲折を印象的に描き、そのなかで革新的な家庭用ヴィデオ・ゲームとして「スーパーマリオ」が登場したことを強調したかったからだろう。シャートマンは近藤の作曲法の特徴をアーケード・ゲームのサウンドトラックと比較しながら説明していく。彼によれば、アーケード・ゲームの音の主な役割はゲーマーの関心を集めることと、プレイの背景を埋めることだった。これはアーケードという環境のなかでは理由のあることだ。一方、シャートマンは近藤が「スーパーマリオ」サウンドトラックに次の2つの機能をもたせようとしたと指摘する。ひとつはゲーム世界の明確なイメージを作りあげること、もうひとつはゲーマーの身体的・情緒的経験をより深めることである。

第1の機能のために、近藤はゲーム内の2つの世界のBGMにはっきりした区別をつけていった。2つの世界とは、地上・水中の開かれた世界と地下・城内の閉ざされた世界である。シャートマンは近藤がいかにさまざまな方法でこの区別をつくりだしたかを具体的に語っていく。調性、リズム、沈黙などのあらゆる音楽的要素がこの区別のために工夫されているという。

第2の機能はややわかりづらいので、シャートマンはまず「スペースインベーダー」(1978)の加速するBGMを例にとる。音によってゲーマーに緊張感をもたらすこの演出は、「スーパーマリオ」にも取りいれられた。シャートマンは近藤がこうした演出を画期的に洗練させたと考える。その代表例のひとつが、ゲーマーに自発的に「動きたい」と思わせる地上BGMだ。近藤自身の言葉(http://www.nintendo.co.jp/wii/interview/svmj/vol1/index4.html)を参照し、また五線譜を示しながら、シャートマンは地上BGMがいかにゲーマーとキャラクターを身体的・感情的に結びつけるのかを語る。

シャートマンによる「スペースインベーダー」と「スーパーマリオ」の比較やアーケードと家庭の対比をめぐる議論は、ゲーム・サウンドトラックが家庭に持ちこまれたときにどんな革新が起きたのかを教えてくれると言えそうだ。近藤浩治による「スーパーマリオ」サウンドトラックの場合は、世界や物語がより明確に表現されるようになり、ゲーマーとキャラクターの結びつきがさまざまなかたちで演出されるようになった。シャートマンがどこまで意識しているのかはわからないが、家庭に持ちこまれるというこの状況は、技術の歴史にとってごく一般的な論点である。例えば、カリン・ベイスターフェルトとアナリース・ヤコブスは論文「音の追憶を保存する――多様な場面にわたるテープ・レコーダーの家庭化」(2009)で、テープ・レコーダーの普及について論じるために科学技術研究における「家庭化(Domestication)理論」を参照している。技術の家庭化をめぐる議論として読むことで、シャートマンの議論はゲーム・サウンドトラック研究にとどまらず、さまざまな技術とゲームを比較するさいにも参考にできるのではないか。

 
技術の家庭化という観点から読んでいくと、「スーパーマリオ」の効果音に関するシャートマンの考察がひときわ面白くなる。というのも、彼はこの効果音の意外なところにいわばアーケードのなごりを見つけているからだ。

「スーパーマリオ」は効果音もやはり洗練されていて、世界観やゲーマーとキャラクターの結びつきを確立する重要な要素になっている。シャートマンはこのことを、効果音をいくつかの「ファミリー」に分類しながら説明していく。まず、ブロックの破壊音のような現実を模倣する効果音のファミリーがある。次に、動作に付けられた非現実的な効果音のファミリーがあり、ジャンプの音などがこれにあたる。この音は、細馬宏通が『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか――アニメーションの表現史』(新潮選書、2013)で論じていた、ミッキーマウスの動作にともなう効果音、いわゆる「ミッキー・マウシング」と同じもので、動作を強調することでキャラクターに生命をあたえる機能をもつ。シャートマンによれば、ゲームの効果音はカートゥーンから多くのことを学んでいる。

ミッキー・マウシングに現実感がともなうのは、キャラクターの動作と効果音の動きがゲーマーの日常の経験を通じて結びつくからである。シャートマンはこのことをジョージ・レイコフの「身体化された認知」理論から解説する。ジャンプの音が上昇音であることに説得力があるのは、ゲーマーの現実の経験のなかで高い位置と高い音が一般的に結びついているからだ。豆の木が伸びる音が上昇音で、クッパが溶岩に落ちる音が下降音なのも同じ理由からである。「スーパーマリオ」のミッキー・マウシングはこうしたルールに厳格なために、統一感があり、ひとつの世界の表現に貢献している。

ところが、このルールに従わない非現実的な効果音がある。旗を降ろすときの音がそうだ。旗は下降するのに、音は上昇する。 シャートマンはこの例外的な食い違いをアーケード文化のなごりと解釈する。旗を降ろす動作によって得点が上昇するから、音は動作ではなく得点に対応している。この得点という要素は、世界や物語の一部というよりも、アーケード文化のなかでゲーマーが自己顕示するためのものである。「スーパーマリオ」のゲーマーは実際、物語の進行とは無関係に得点を追求することもできる。したがって、旗を降ろす効果音は「スーパーマリオ」が文化と市場が動いていく流れのなかにあることを示しているのだ。

シャートマンによる効果音の分類は先に紹介したものよりさらに細かい。彼はミッキー・マウシングの分類や、現実の模倣にもミッキー・マウシングにも入らない効果音も考察している。この最後のファミリーに含まれるファイアボールを投げる音、これもシャートマンはアーケードのなごりと考える。クッパの炎とは違い、ファイアボールの音は現実の何にも似ていない。投げる動作とも関係がない。この音はむしろ「スペースインベーダー」に代表されるアーケード・ゲームの伝統に属している。シャートマンによると、任天堂のゲームからはこのアーケードで生まれた発射音がよく聞こえるのだという。

 

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